e−たわごと No.008

投稿日 2002/12/15  大木先生のことなど
寄稿者 八柳修之

 盛岡発No.005、大木真一先生の新聞記事、拝見しました。田口さんになにか大木先生のこと、書きますと安請け合いしてしまったが、中学1年のとき、数学を教わっただけですから、正直、あまり先生のことを覚えていないんです。
 75歳でお亡くなりになったということですから、われわれが中学1年生のときは、まだ大学を卒業されたばかりの23か24のお年だったのですね。
 教職時代の先生、みなさん、いろいろと思い出もあることでしょうが、先生のすばらしさは教職を退いた後の人生の過ごし方にあったように思います。記事を読んで、われわれのセカンドライフの有り様について、深く考えさせられるものがありました。

 先生の思い出といえば、坊主頭で蟹股、率先しての清掃、これは誰しも共通した先生の姿、見たことがないのは背広姿の先生でした。
 坊主頭のことで一つエピソード、以前、母から聞いた話です。佐々木義弘君の母上(私の母とは幼稚園から女学校まで同級生で親友であった)から聞いた話である。当時、先生は三年の担任でした。大木先生が義弘君の兄上恵彦さん(現日大生物資源学部学長)を訪ねて来たことがあった。大木先生は「恵彦君いますか」と言った。母上は坊主頭だったのでてっきり同級生かと思い「恵彦、お友達ですよ」と言ったとか。
もっともサングラスをかけた同級生をその筋の人と間違った人もいたようですが。
 掃除の話はみなさんもよく覚えていると思います。当時はまだ小学校の校舎に間借りしていました。校庭と校舎の境には幅3〜4mのコンクリートのたたきがあり水路が流れていました。よく3年生が中心となって清掃していましたが、先生はいつも自らその先頭に立って掃除していた姿を覚えています。
 個人的には、先生には叱れたことも褒められたこともなく、特にお話したこともなかった。数年後、1〜2度、子供を自転車に乗せた先生の姿を見かけたことがあった。挨拶すると「オッス」と言われたので覚えてくれたかも知れない。

 先生と面と向かって話したのは、1997年の大沢温泉での還暦のクラス会のときが初めてであり最後でした。先生は奥様の介護でむつきを替えていることや、いつも口紅など入った化粧道具を持ち歩いていることを話されました。「女は化粧しなくなったら、女ではない。口紅をつけてやると喜ぶんだ」と言っておられました。
 また海外青年協力隊の話もされていましたが、もうその頃からガンに侵されていたのですね。私が、会社でアフリカで活動したことがある隊員を採用したことがあったが、水に合わなかったのか、またアフリカに戻って行った青年の話をした。先生は「そうなんだよなぁ、この世界に入り込んじゃうとねぇ」 「ところで、君の会社、なにか現地に対する社会貢献している?」 「子供たちに会社のロゴ入りのTシャツ、帽子、サッカーのボールなど配っていますが」 「子供たちは会社の宣伝をさせている訳。この三菱野郎ってボール蹴っているかもね」 「石油を売ったお金が、武器を買ったり、為政者のポケットに入っているんだよね」という話から、援助やODAのあり方の話にまでなったことがあった。

 話は飛ぶが、先日、友人の勧めで「阿弥陀堂だより」という映画を観た。自分が「生きている」ことをもう一度考え直すために信州に帰って来た中年夫婦と、二人を取り巻く村の人々との温かい話である。いつの間にか遠くを見ることを忘れてしまった我々にそれを考えさせる映画で、台詞の一つ一つにも含蓄があった。
 樋口可南子演ずる女医のひと言「今、よく生きることが、よく死ぬことだ」
 大木先生は、一日一日、充実した日々を過ごしたに違いない。合掌
(12・15、八柳 修之)

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