e−たわごと No.010

投稿日 2002/12/09  最後の杯(1)
寄稿者 八柳修之
最後の杯(1)

 年末になると、第九を聴かないと年を越せないという人がいる。私はこの時期、阿保郁夫のタンゴを聴くこと11年になろうとしているが、今年は聴くことはできない。 
阿保さんは6月に脳血栓で倒れたからである。そして今、人生、三度目の戦い、おそらく歌手として最後を賭けた戦いに挑んでいる。
 阿保郁夫は日本では数少ないタンゴ歌手である。日本ではほとんどその名を知られていないが、アルゼンチンをはじめタンゴマニアの間では藤沢嵐子とともにIkuo Aboとして知られている。以下は、阿保郁夫の半生である。

 阿保さんと初めて出会ったのは90年11月、立教のラテンアメリカ講座の特別講座であった。当時、私は二度目のアルゼンチン駐在から帰国したばかりで、タンゴ熱まだ覚めやらなかったので自然に足が向いた。
 講演に先立って、「学校で場所柄をわきまえないとお思いでしょうが、お見せする顔ではありませんから、サングラスはかけたままで失礼させていただきます」と言った後、ノスタルヒアス(郷愁)を歌った。そしてタンゴの歴史について、カルロス・ガルデルからピアソラまで解説し、そして最後にウルティマコッパ(最後の杯)を歌って講演を締め括った。
 誰かが「どんなきっかけでタンゴを歌われるようになったのですか」と質問した。それからの話は聴衆を感動させた。しっかりとノートしていたし、その後、彼自身からも聞いた話なので再現できる。

 「私はあの朝、あのいまわしい病気に罹らなければ、タンゴを歌うことはなかったでしょう。そして大学を出て平凡なサラリーマンになるか、青森で百姓をしていたでしょう。1958年3月のある朝、洗面所の鏡に写った自分の顔右半分は大きく引っていた。東大病院で診てもらうと、三叉神経が切れており、顔面マヒという診断であった。20歳の私には、これからの人生への絶望感が募るばかり、頭の中は真っ白になった。次の日から、治りたい一心で病院へ通った。しかし、治療といえば、カルシュウムとアリナミンの注射、マッサージの繰り返しばかりで症状は一向に良くならなかった。発病から5か月、顔は一層ゆがみを増したように見え、下宿の学生達との食事を避けるようになり、今思えば私の心も蝕んでいた。
 8月、病院の帰り突然雨に襲われた。雨宿りのため池袋の赤札堂地下の喫茶店に入った。タンゴのレコードがかかっていた。置いてあった音楽雑誌をぺらぺら捲ると、「フランシア・タンゴ教室」という広告が目についた。これがきっかけで、フランシア先生の教室に通ってみようかという気になった。先生は顔面マヒの私を温かく受け入れてくれた。明けても暮れても「ノスタルヒアス」だけのレッスンであった。私は不満であったが、先生は「この曲がきちんと歌えれば、ほかのどんな曲でも歌えるようになるから」といい、私もその言葉を信じた。そのうち唇もスムーズに動くようになり、ひねくた私にも明るさが戻った。様子を見に弘前からやって来た父は「やるからには、途中でやめるな」という言葉を残して帰った。
 その後、立命館に入ったが、サラリーマンにならずタンゴの道を進むことに決めた。そして1961年、NHK「歌の広場」で歌手としてデビュー、64年からオルケスタ・ティピカ東京、藤沢嵐子の南米公演に参加し、アルゼンチンで本格的にタンゴを勉強したのです」と言った。

 その話を聞いて感動したので、帰り際に素直に自分の気持ちを伝えた。そして、阿保さんとブエノスアイレスの話しなどした。聞くともう30回以上も訪亜していることで、私の友達のFやUとも懇意にしていることが判り、友達となった。
 それ以来、毎年、6月と12月に開かれるディナーショウには、必ず女房と聴きに行くことになったのである。 (続く)

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