e−たわごと No.013

投稿日 2003/01/22  三浦博孝君
寄稿者 八柳修之
三浦博孝君

 iwayama3の表紙が白鳥に替わった。みなさん、白鳥の写真をご覧になった感想はいかがですか。私は三浦博孝君のことを思い出しました。曽我ひとみさん式の発想です。
  冬  白鳥  高松の池  スケート  三浦君
  春  桜   高松の池  ボート   三浦君

 実は三浦博孝君のことは、あまり覚えていないのだが、亡き同級生のご冥福を祈り、三浦君のことをできるだけ思い出してみたい。

 小中学校の頃、三浦君は三角という渾名がつけられていた。顔かたちが三角形であったから、おそらくそのように呼ばれるようになったのだろう。顔かたちや体型で、渾名をつけられるのは本人にとっては、不愉快なことである。キューピーなどまだましな方で、便所下駄(四角顔)、ピテカン、(ピテカントロップス)砂利パン(砂利状の禿)など、今、思えば相当酷い渾名がつけられた教師もいた。

 三浦君は小中学校の頃、どちらかと言うと、おとなしい、ひ弱な感じのする少年であった。(人のことは言えないのだが)大分、あとになって、三浦君は幼少の頃、母親と死別、一つ下の妹と祖母に育てられていることを知った。小学校の頃は、深沢忠範さんと親しかったような記憶がある。

 4年生の頃、高松の池へお花見遠足があった。学校から北山、旧桜山を越えて高松の池に出て、再び学校へ戻るというコースであったが、昼食後、先生が「家に近い者はここから帰ってよい」と言った。そこで、初めて彼の家が高松の池でボート屋さんをやっていることを知った。

 6年生のとき、彼にとって転機ともなることがあった。仙台・松島の修学旅行をテーマにしたNHKのローカル放送があり、その番組で彼は作文を朗読した。訛のない高いよい声であった。これが契機となり金谷瑛子さんとともにJOQG子供番組の出演者となった。その後、金谷さんは放送界との縁が続き、ご主人となるアナウンサーの大野さんとの縁もあったのだが、三浦君は声変わりしたのか、心変わりがしたのか、放送界に進むことはなかった。

 三浦君が大きく変わったのは、高校に入ってからである。もう誰も三角とは呼べぬほど態度が大きくなっていた。それは、高松の池が育てたスケートであったと思う。昼休みの時間、彼はゴールキーパーの防具をつけ、水で濡らしたスノコ板から上級生が打つシュートを必死に受けていたのだった。その練習風景を多くの生徒が取り囲み眺めていたから、彼は得意満面、大きな自信となったに違いない。2年上には、立教に進み古河電工、オリンピックのキャプテン、全日本の監督を務めた島田繁さんなど、よき先輩に恵まれたこともあったであろう。

 高校卒業後、彼が岩手医大でゴールキーパーをやっていることを知った。街で出会ったとき「医大に入ってアイスホッケーやっているなんて凄いね」と訊ねたことがあった。「テンプラだよ、雇われてね。俺、医大に入れるわけねーじゃねぇーか」と言った。

 それから、彼に再び会ったのは、1993年5月、花巻温泉での同級会であった。そのとき二人はもう55歳になっていた。そして、彼が山羊ひげの和服姿で現れたのに驚いたのは、おそらく私一人だけではなかったろう。雄弁ではあったが、顔色が悪く痩せた姿が何故か気になった。それから1年後の1994年9月、56歳の若さで他界したのであった。これ以上、彼のことは知らない。
たわごとPARTUに、中学卒業時に山と題し、母への想いを切々と書いた文章が載っている。感動的な文章なので一読をお薦めする。
(1・22 八柳 修之)

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