e−たわごと No.012

投稿日 2003/01/10  赤い靴
寄稿者 八柳修之
  赤い靴
 99年9月の書き物です。9月2日は語呂合わせで靴の日、毎年、靴屋さんの協会がスポンサーとなって「靴の日記念ウォーク」がある。今日はこんな楽しい歩き方もあることを教わった。山下公園の「赤い靴を履いていた女の子像」の前をスタートし、港の見える丘、外人墓地、元町、中華街、伊勢崎町、みなとみらい、赤煉瓦倉庫、そして山下公園に戻るという10キロ、典型的なシティーウォークである。
 お偉方の挨拶後、参加者全員で赤い靴を歌ってからのスタートである。赤い靴の歌、なんとなく物悲しく、これから勇んで歩こうという人には元気が沸いてこない。人形の家を過ぎた辺りで、品のよい老紳士が声を掛けて来た。こちらも一人歩きの様子だった。
 「さっきの赤い靴の歌、だれの作詞か知っていますか」「いいえ、知りませんが」「野口雨情、十五夜お月さん、七つの子などの童謡や、船頭小唄、波浮の港など作っていますよ」「野口雨情、名前は聞いたことがあります。よくそこまでご存知ですね」「いや、昨夜調べたんですよ、知ると誰かに喋りたくなる性分なもんで」「結構じゃないですか」「でもあの歌詞、大正や昭和の初めの頃、かなり裕福な家庭でないと子供は革靴を履いていなかったと思いますよ」「その女の子は赤い靴を履いていたんですよね」と私が相槌をうつ。「赤い靴に、ベルベットの洋服を着て、髪にはリボンを結んでいた。フランス人形のような愛くるしい眼の女の子を想像したいですね。なぜ、女の子は横浜の波止場から、船に乗って異人さんに連れられて行っちゃった、と想像したことがありますか」と男は話を続ける。「子供の頃、母親から人さらいの話を聞いていましたから、不良船員にでもさらわれて行ったと思ったものですよ」「そうですかね。私はこの女の子は合いの子、ハーフであったのではないかと、想像したいんです。ハーフには美人が多い。フランス人形のように可愛い、父親はアメリカ人、母親は日本人、素性のよくない女なんて想像したくはありません。正式な結婚をしていたかどうかは別として、元町の高台に住んでいた。父親の都合で帰国することになる。母親には一緒にアメリカへ行けない事情があった。父親はこの子がハーフなるが故に、将来日本では差別されると思って連れて行った。この女の子と一緒に遊んでいた男の子の淡い気持ちを唄ったものであろうと想像したいですね」と、男は一気に喋り捲った。今日はメルヘンな話で脳が活性化され想像力も高まったような気がした。 

 それから3年余、1月30日の朝日の夕刊、「歩く 童謡の旅、赤い靴の女の子は実在していた」という記事を見た。「少女の名は岩崎きみ。静岡県に生まれ、母親はかよ、未婚の母。2年後に母子は函館に移り住む。やがて後の夫とともに洞爺湖の北の留寿都村に入植するが、過酷な地に幼い子は連れて行けず、札幌の宣教師夫妻にきみを託す。開拓は失敗し、かよの夫は札幌の新聞社に勤める。同僚に野口雨情がいた。かよの話を聞いた雨情がのちに「赤い靴」を書いた。ところがきみは船に乗っていなかった。宣教師夫妻と暮らすうちに、結核にかかってしまう。そこへ、帰国命令、きみの体は長い船旅には耐えられない。きみは東京麻布十番にあった教会の孤児院に預けられたが、9歳で死ぬ。明治44年のことであった」

 あの3年前の老紳士の想像は外れたようだ。でも、不良船員に拉致されたのではなかったことは確かだ。あの老紳士は今もなにかを想像し、元気に歩いているだろうと想像したい。ところで、静岡・日本平山頂に「赤い靴母子像」、留寿都村に「母思像」、麻布十番商店街に「きみちゃんの像」があるそうです。
 白金にお住まいのシロガネーゼ様、麻布十番まで散歩なさいませ。シロガネーゼ様はパソコンお持ちでないようですから、お友達の万里子様、よろしくお伝えください。ひょとしてシロガネーゼ様も赤い靴履いていたかなぁ。ベレー帽を被っていた人の名はわかりましたが。
(1・31 八柳 修之)

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