e−たわごと No.019

投稿日 2003/02/05  映画「壬生義士伝」
寄稿者 八柳修之

映画 「壬生義士伝」
 
 小説が映画化され期待して観ると、往々にして自分の持っていた原作のイメージを裏切られることが多い。文庫本ならば一冊5〜600円程度、映画ならばシルバー割引でも1,000円、楽しむ時間は2時間程度である。だから、あまり小説が映画化されたものは観ない。特に浅田次郎の小説は、映像の演出的手法のような巧みさがあり、読者に色々なイメージ、想像を抱かせてくれるからである。涙を浮かべながら小説を読んだのは久しぶりのことであった。もっとも最近、とみに涙もろくなっているが。
 しかし、舞台が盛岡とあれば、ことは別である。度々、出て来る吉村貫一郎のお国自慢話、「盛岡の町、それは岩手山、南には早池峰。北には姫神山。北上川と中津川の合流する先に不来方のお城、ああ、なんと美しい町でしょう」なんてあれば、景色だけでも観たくなるものである。

 わが町の映画館でも遅ればせながら上映された。「時代劇ですか」、あまり乗り気でなかった女房も主役が中井貴一と聞いてついて来た。小説で想像した吉村貫一郎のイメージは、うだつの挙がらない田舎侍、中井貴一では美男すぎる、寺尾聡あたりが適役という感じであったが。
 結論からいうと、やはり小説を読んで描いていたイメージとは違ってはいたが、映像にはまた違ったよさはあった。なにしろ、1,000頁もの本を2時間にまとめるのだから、脚本家と監督のイメージと腕次第、観るものには同じような感動を与える。それに中井貴一の渾身の演技は素晴らしかった。寺尾聡では南部藩士として貧弱過ぎる。

 期待していた盛岡の風景は全くなかった。ロケも盛岡でされてはいなかった。わずかに季節ごとの岩手山の姿が4ショットあっただけであった。
 私が最もよかったと思ったのは、次の小説のクライマックスのシーンである。
 吉村貫一郎の遺児(同じく名、貫一郎)が、8歳で越後の豪農江藤家に養われ雫石を去る。のちに米馬鹿博士と呼ばれるほどの稲の育成と品種改良の泰斗、帝大農科教授となり、退官後、盛岡高等農林の教授として赴任することになる。車窓から眺める故郷の風景、それは父、貫一郎がいつも心の中にあった風景でもある。「目をつむり、耳を澄ますと、車内に流れる南部訛の何と美しいことでしょう。・・・母と別れ、ふるさとを捨てた日のこと・・・。佐助さんに背負われて、雫石街道を上って、北上川にかかる夕顔瀬橋・・・盛岡に着いたらぜひその橋に立ってみたい・・・私を背負った佐助さん、越後さ行っても、盛岡ば忘れねで呉ろって・・・」
 列車が盛岡に着いたときの描写、「おうい、今帰ったぞお。南部の風じゃ。盛岡の風じゃ。胸いっぺい吸うてみるべさ。力いっぺいに、胸いっぺいに。ああ、何たるうめい風にてごあんすか。ああ、何たるうめい風にてごあんすか・・・・。」
この部分が映像にはなかったのは残念であった。
 女房はよい映画だったと、「壬生義士伝」を読み始めた。観てから読むのでは、イメージが狭まるだろうが、読まないよりはよかろう。



(続)鍵屋
 先に駒井義明さんの鍵屋に関するレポートを掲載したところ、田口絢子さんから鍵屋に関する11月1日付盛岡タイムズの新聞記事が送られてきました。駒井さんのレポートと一部重複する部分もありますが、転載します。
「オリジナル大吟醸鍵屋茂兵衛、悲運の先祖をブランド、盛岡市の酒店が限定販売」という見出し。

 「盛岡市中ノ橋通り1丁目の酒店鍵屋(村井栄輔社長)では、いまから150年前に活躍した先祖、鍵屋茂兵衛(1821〜1873年)の名を付けたオリジナル大吟醸鍵屋茂兵衛(720ミリリットル2000円)を発売した。・・・・製造元はあさ開(盛岡市大慈寺町。村井良隆社長)。原料は県産米美山錦。・・・・
 オリジナル酒の名前で藩政末期から明治初期にかけての盛岡の豪商鍵屋茂兵衛は、本名村井京助と言い、初めは南部藩主の小姓、勘定方に仕えた。のちに藩士の仕事を辞めて商売に専念し、大阪、江戸、仙台、鹿角に支店を設けて商いをするまでになった。
 明治維新の1869年、南部藩が転封先白石から元の盛岡に復帰する際の献納金70万円を捻出するために大阪在住の英国商人オールトから借金。その返済のため南部藩は鍵屋茂兵衛に尾去澤銅山の一部を払い下げ、その運用益での返済をもくろんだが失敗した。 
 明治維新政府が確立し、廃藩置県が行われた後も問題は大蔵省に引き継がれ、鍵屋は身代限り、銅山は没収という処分を受けた。藩の財政窮乏の責任を一身に被って晩年は大阪に隠居。1873年に没した。
(2・5 八柳 修之)

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