e−たわごと No.020

投稿日 2003/02/20  盛岡八景
寄稿者 八柳修之

盛 岡 八 景
 
 昨年の盛岡での「想い出をたどる会」以来、すっかり盛岡づいてしまったようだ。盛岡への想いと関心は感受性の強い10代を盛岡で過ごした影響が大きかったからであろう。盛岡は杜の都であり水の都である。街を二分する中津川、北上川、雫石川。川が合流する地点の平坦な河岸段丘に街がある。
 だが、私の育った時代の盛岡の街は、当たり前のことだが大きく変わった。岩手国体、町名変更、町村合併、道路整備、新幹線乗り入れ、県都への人口集中など、半世紀の間、街を大きく変える要因があった。

 たびたび、浅田次郎の「壬生義士伝」の吉村貫一郎の自慢話を持ち出して恐縮だが、「南部盛岡は日本一の美しい国でござんす。西に岩手山が聳え、東には早池峰。北には姫神山。城下を流れる中津川は北上川に合わさって豊な流れになり申す。春には花が咲き乱れ、夏には緑、秋には紅葉。冬ともなりゃあ、真綿のごとき雪こに、すっぽりとくるまれるのでござんす」、だが寒い冬だけは御免です。
 吉村貫一郎親子が過ごした江戸末期から明治維新にかけての盛岡の風景、当時の人々はどんな風景を美しいと感じたのであろうか。これを解いてくれるものに盛岡城下の景勝を詠み描いた「盛岡八景」と呼ばれるものがある。増子義孝さんが勤める県立大の脇田先生の「環境社会学」のホームページで知ったことだが、盛岡八景がどこなのかを知ることができた。

 盛岡八景とは、「高嶋(浮島)の夜雨」「北上川帰帆」「舟橋夕照」「円光寺晩鐘」「安庭晴嵐」「鑢山(たたらやま)秋月」「澤田落雁」「岩手山暮雪」である。盛岡八景は著名な近江八景、金沢八景に倣ったものである。八景はもともとは、中国湖南省の洞庭湖あたりの瀟湘(しょうしょう)という所の景勝八ヶ所を北宋の文人画家宋迪(そうてき)が画題として選んだのが始まりである。これに倣って近江八景が生まれ、諸国に広まったものであるという。

 勝手な想像であるが、盛岡にやって来た近江商人達が、故郷のことを想い、盛岡八景を選定したのではないかと思う。キィワードの夜雨、帰帆、夕照、晩鐘、晴嵐、秋月、落雁、暮雪はどこの八景にも共通である。「暮雪」、夕暮れの雪景色なら岩手山がよいと感じたからであろう。
 さて盛岡八景、このうち高嶋(浮島)はどこだったのかは判らないが、そのほかは河南地区に集中している。当時、北上川を航行する帆船が夕暮れどき船橋(舟を並べた上に板を渡して橋としたもの、明治橋附近にあった)に帰帆、近くの円光寺の晩鐘が響きわたっている様子を美しいと感じたのであろう。川運を業とし取り仕切ったのは、おそらく近江からやって来た商人達であったであろう。

 「安庭晴嵐」「鑢山(たたらやま)秋月」「澤田落雁」、少年の頃、東安庭に住んでいた私としては、少しはその良さをわかるような気がする。盛岡は北へ北へと発展する町で、この地域は広大な試験場の圃場で占められ、いわば開発から取り残され、比較的自然も残っていた。澤田集落に餌を求めて雁の群れが舞い降りるような記憶はなかったが、東安庭の鑢山、蝶が森、檀が森などの山々に晴れた日、気が立ち霞がよく見られた。
 いまは八景のうち見られる風景は、もう岩手山の暮雪と鑢山の秋月くらいなものでしょう。
 かって、市街の何処からでも見られた岩手山も高層ビルの建築によって、見られる場所が少なくなり、やがては郊外にまで足をのばさないと見られなくなるでしょう。

 私は脇田先生の環境社会学ゼミの実践テーマの一つとして、市街から観られる岩手山のポイント調査を提案し、現在、可愛い女子学生がカメラを持って歩き回っている筈です。なお、盛岡八景を描いた掛け軸が、中央公民館郷土資料展示室で観られるそうですから、南部さんのお屋敷のお花見に行った際、立ち寄ってみてください。
(2・18)

追記: この拙稿を書き上げた後、iwayama3を見たら、白鳥が北に帰ったのか、表紙が岩手山に変わっていました。映画「壬生義士伝」のシーンにわずか数ショット、桜の木を背景にした岩手山の姿は袰岩さんが撮影したこの場所からのものでした。
そして、毎週日曜日のNHK大河ドラマ「武蔵」の冒頭に出て来る山、なんだか岩手山に良く似ていると思っていたところ、リンクの「附六」のホームページで、やはり岩手山であることを教えていただきました。福士先生ほかみなさま有難うございます。
(2・20 八柳 修之)

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