e−たわごと No.022

投稿日 2003/03/11  消えた地名(河南版)
寄稿者 八柳修之
消えた地名(河南版)

まだ「壬生義士伝」を引きずっている。吉村貫一郎の住んでいたとされる上田組丁はどのあたりにあったのであろうか。昭文社2000年7月発行のエリアマップシリーズ「盛岡」を開いて見ても、町名・区画整理で上田は1丁目から4丁目に整理されていて判らない。昨年の「想い出をたどる会」で貰った「城下盛岡旧町名探求地図(文化地層研究会編)」があることを思い出した。いいものを貰ったものだ。

 上田組丁は、山田線の踏切を越えて、専売局から高松の池方面へ行く途中、一高の横辺りであったことが判った。ちなみに上田には上田与力小路、輿力小路、上田門前小路、上田横小路などの地名がみられ、同心や与力など下級武士の居宅があったことが窺える。

さて「城下盛岡旧町名探求地図」を改めて見ると、町名・区画整理で城下町固有の地名が無くなったことがわかる。文化9年(1812)の町方再編成によって定められた城下盛岡二十八町名は、1970年の岩手国体以前の頃まで存在していたのである。

お城を中心とし北北東にあった付属の加賀野地域から、南の東安庭までの道草を含めて縦断する通学路、生活圏であった河南地域の地名を「探求地図」により改めて見てみた。

多くの同級生が住んでいた加賀野という地名、加賀の国と関係があったのであろうか。森 嘉兵衛「岩手をつくる人々」によると、「野原が芝生で覆われている所を「かぬか」「かが」「かがの」という、九戸郡種市の「かぬか」とか、盛岡市の加賀野などは、もとは芝生地帯だった」とある。

加賀野と名の付いた地名を列挙してみよう。加賀野田神松(たのかみまつ)、加賀野北井崎、加賀野春木場(上流で冬に伐採した木材を、春に雪解け水を利用して流し貯木したところであったと思われる。春木場という地名は、梁川の葛西橋の上流右岸にもあった)、加賀野中道、加賀野角子(中学校があった所、かどこでなく「すまこ」ということは、最近知った。工藤 力さんの家は地図によると角子でも中道でもなく天神下のようだ)、加賀野久保田、外加賀野小路(「探求地図」では「御徒歩町(おかちほちょう)とも、徒歩で供をする侍が住んでいたのであろう」、武家屋敷があったと思われる内加賀野小路、加賀野新小路も見られる。

新庄方面には鼻子(はなこ)、中鼻(なかはな)なんて、地名の由来を知りたい所があった。小人町(まさか小人が住んでいたわけではない。武家の召使、使い走り、いわゆる小者が住んでいたのだろう)、志家田甫(たんぼ)、鹿島、鹿嶋下、尾崎前と続くところは私の通学路の範囲である。櫻川町、万代町(まんだいまち)、末廣町、栄町、水主町(かこちょう)いずれもはじめて知った。

横丁というと、飲み屋横丁などを連想するが、愛染横丁、杜陵館横丁、帰命寺横町、堰横町、井戸横町、温泉横町、穀町横丁、馬町横丁、会所横丁など結構多い。米内光政居住地跡附近は温泉横町と呼ばれていたようだが、はたして温泉があったのか、八幡町の裏通りなので、?地区であったか。とすれば、米内さんは、立派なお人だったね。

横丁ばかりではない。武家屋敷があったとされる小路の名も消えた。餌差小路、鷹匠小路、馬場小路、上衆小路、大清水小路などである。佐藤信生さんが住んでいた文化小路の名も消えたが、これは文化・文政の頃、付けられた名ではなく、おそらく明治以降に付けられた名であろう。

町方再編成で定められた城下盛岡二八町中、十五町が河南にある。北から、紙町、鍛冶町、紺屋町、葺手町(ふくでちょう)、肴町、呉服町、生姜町、六日町、十三日町、八幡町、馬町、穀町、新穀町、川原町、鉈屋町である。このうち、現在、名前が残っているのは紺屋町、肴町、八幡町、鉈屋町の四町だけである。残った四町の範囲も大きく変わっている。例えば昔、呉服町、六日町などが肴町に統合されている。

みなさんにはなじみの薄い梁川を渡った南の地域に目を転ずると、「探求地図」にはないが、百目木(どめき)、五輪(ごりん)、田屋前、定里(さだまり)、砂留(さだまり)、厚朴田(こうぼくた)、など、珍しい地名が消えた。

百目木(どめき)とは、前掲の森 嘉兵衛によれば「野沢がところどころ急坂にくると水勢が急になって遠くからでも音がどっどっと高くなっているところが、「どどめき」「どうめき」で、今では「百目木」などといっているが、岩手県にはこの地名はからり多い」と述べている。地名は地形に由来するものが多く、小川、瀬川などようにのち姓名ともなっている。
 「田屋」とは、盛岡では別荘、離れのことをいう。「御田屋清水」とは、どなたか偉いお方の別荘があって清水が湧いていたのだろう。
 高崩(これも地形に由来する地名である)には木津屋のお田屋があったし、八幡様の裏手には久保庄(肴町の本屋さん)のお田屋があった。


 盛岡二八町名の由来は、「探求地図」の裏面に記載されています。読んでみてください。なるほど、と思うことが多い。
(3・11 八柳 修之)

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