e−たわごと No.031

投稿日 2003/05/05  記憶と記録
寄稿者 八柳修之

 小川さんや山中さんに、「子供のころのこと、事こまかによく覚えているね」「よく書くね」と感心された。だが女房に昨夜は何を食べたか、テストされて答えに窮することもあり、行く末が思いやられる昨今である。

 その上、一切身の回りのことはできず、痴呆で施設に入院している87歳になる母が、身体の調子がよいとき話すこと、それは幼稚園、小学校のころと思われる話である。私には初めて聞くことばかりなので真偽のほどは判らないが、二度三度同じ内容の話しを聞くにつけ、おそらくそんなことがあったのだろうと思っている。特に幼稚園から女学校まで一緒だったという佐々木みきさん(佐々木義弘さんの母上)の話がでると、それは確信に変わる。
だが一方、私もこんな姿になるのかと思うとぞっとする。だから、「記憶がよいね」と褒められても俄かに喜べない。

 帰宅後、小川さんから、小中学校、高校時代のこと、そして研究者としての道を進んだ後のこと、現在の心境などを綴った長文のメールをいただいた。

披露するわけにはいかないが、この拙文は小川さんのメールへの一部お答えになるかもしれない。

 およそ人間のCPUの容量にはそんなに大差あるわけではないと思う。私のCPUは小川さんそれとは違って、記憶しなくてもどうでもよいものが詰まっているだけであろう。小川さんのように別な次元のことを記憶する能力があるとすれば、銀行員などにはならず別な道を歩んでいたかもしれない。
 アインシュタインの大脳の重さは、普通の人のそれとは大きく違っていた話は知られているが、記憶力とはどんな関係があるのだろうか。精神科医の青木さんや脳神経外科医の田口さんのご子息に一度お聞きしたいものである。

 私ながらに記憶力なるものを分析すると、私は小中学校時代、親、兄弟、先生、友達との関係において、とくに嫌なことがあったことは少なく、その育った環境が私にとって自由で快適なものであったからではないかと思う。その後、社会に出て、よいことがあったとしても、長く続いた幼少年期がよい記憶として、これに優るものではなかったからではないか、と思うのである。
 一方、小川さんの場合、過去にとらわれず、人生をいつもあらゆる可能性に向かって前に突き進んで生きてきたと思われる。小川さんのCPUの大部分は研究のこと、論文を書くことで占められ、それが精神的にも満たされて来たと思われる。その差ではなかろうか。

 しかし、現在の私にとって「書くこと」は、意識した上での行為である。
サラリーマンであったときは、人とのコミュニケーション、物を読むこと、そして書くことが日常業務の中で求められた。リタイアしてしまうと、これらのことを意識して行わないと、「ボケる」のではないかと心配になってしまう。

特に書くことを怠ると、脳のどこかの部分を退化させてしまうのではないかと怖れる。そしてCPUから補助記憶装置たる紙やHDに記録してしまえば、その記憶は忘れてもよいし、その分だけ新しいことを覚える容量が増えるのではないかと考えるわけである。しかし実際、記憶はそう簡単には消えないのだが。



 たわごとに駄文を投稿しているのも、ぐうだらになり勝ちな自分にプレッシャーをかけるためである。
 同級生のホームページということから、できるだけ多くの人に共有できる内容がよいと思うと、想い出話になってしまう傾向がある。
 ホームページをマンネリ化し、なかば私物化し申し訳なく思うのですが、アクセスのカウンターが上り、こんな駄文でも読んでくれる方がおられればと思うと、絶やしてはいけないと思い投稿しているわけです。ピンぼけなことが書いてありましたらどうかご指摘ください。
55 八 柳)

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