e−たわごと No.042

投稿日 2003/06/09  最北端の町
寄稿者 八柳修之

 東京から稚内まで、鉄道ならば八戸まで新幹線、途中、一泊もせずに特急を乗り継いでも16時間半かかる。くたびれ果て、その上風が吹き、冷たい雨でも降ろうものならば、‘はるばる来たぜー最果てのワッカナイー’という気持ちにもなるのだろうが、飛行機でひとっ飛び110分で稚内に着いた。文明の利器は時間と空間をあっという間に変えてくれる。
 空港を出ると雲一つなき快晴であるが、気温は8度、東京とは10度も違い思わずセーターとウインドブレーカーを着込んだ。
 「ようこそ、日本のてっぺんの町へ」という市の歓迎アーチ、ここでは最北端の町とは言わぬようだ。待っていた観光バスに乗り込み、先ずは宗谷岬へと向かった。
 
 稚内は人口4万3千の町、街を歩く人の姿はほとんど見当たらない。車窓から見る家々の玄関口は一間ほど出っ張っているのが特徴、家に入る際雪を払うためだという。旭川などの内陸部より雪は少なく暖かいとはいうものの、やはり雪国とあって、雪に埋まらないように石油貯蔵タンクに長い足、ゴミかごも高い所に、信号機のランプが横ではなく縦に、舗装道の境界を示す表示など積雪対策が取られている。厳冬を知らない観光客、でもそこに住み、精一杯働き、一生暮らす人々もいる。バスガイドの屈託のない明るさには何故か温かさを感じる。
 
 30分程で宗谷岬に着いた。日本最北端の地という碑、氷雪の門、九人の乙女の碑、間宮林蔵の像、宮澤賢治文学碑、エトセトラ。記念碑だらけである。
記念碑はそれぞれ意義のあるものばかりであるが、こういろいろと建てられると最北端の地にいるんだと、自分自身に言い聞かせないと実感が湧いてこない。
 「今日は稀に見るよいお天気です。サハリンまでは43Km、遥か前方にサハリンがかすかに見えます」とバスガイドが案内したが、白内障予備軍にはそう言われば見えるような気がする程度であった。
 毅さんが「瀬尾君は樺太から引揚げたんだよなぁ」と言った。瀬尾さんなら、あるいははっきりと想い出と重なり、樺太が見えたかもしれない。そして、毅さんもまた大日本帝国最南端の台湾から引揚げたので、なにか感慨深いものがあったに違いない。だが蒋介石とスターリンとでは、日本に対する対応が大きく違っていた。
 
 瀬尾さんは終戦前に引揚げていたので危うく難を免れたが、ソ連のやり方は汚かった。戦争にはキレイ、キタナイはないが、相手が降伏すればゲームは終わりというルールはあろうというものだ。ソ連軍が南樺太に侵攻したのは20年8月5日である。15日、日本はポツダム宣言を受諾し終戦となったのだが、ソ連軍はなおも攻撃を続け、停戦に応じたのは22日であった。この間、真岡の電話交換手のように「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら」という言葉を残して自決した悲劇もあった。悲劇はそれに留まらなかった。多くの技術者や屈強な男達がシベリアに抑留され、そして43万人の島民が引揚げることができたのは21年12月からであった。さらなる悲劇は今なお韓国・朝鮮籍の人は取り残されている。ここに建てられた記念碑によって、このような歴史を知ると、ここへ来た意義はあると思うのだった。
 
 現在、稚内とコルサコフ(大泊)間5時間30分、一ヶ月7便の定期船が就航している。しかし、樺太を知っている世代、悲惨な歴史を語り継ぐ人も少なくなっているであろう。日本最北端の食堂というお店でラーメンをすすりながらそんなことを思い、次なる目的地利尻島へと向かった。
(6・9 八柳 修之


写真説明:ノサップ岬にて
「ノサップ岬はナニモ ナイデスー、向こうに見える茶色の屋根の家は私の家です」
と精一杯のジョークでサービスするバスガイドはいじらしい。

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