e−たわごと No.043

投稿日 2002/07/01  木津屋のルーツ
寄稿者 八柳修之
池野家の紋は桔梗
 今度、引越したマンションから歩いて5〜6分の所に図書館がある。というより公園、市民会館、体育館、図書館、そしてスーパーなどの買い物の利便性を考えてマンションを選んだと言った方が正確である。読みたい本は借りてきて、図書館ではもっぱら新聞や週刊誌を読んでいる。大体、いつも同じ年頃の親父連中が来ているが、図書館なので会話することはない。
 「22,660日の昭和」という面白そうな本を見つけた。ぱらぱらと捲っていると、昭和21年4月の頁に「盛岡の花見、GIと記念写真」という40mm×55mmの小さな写真と解説があった。
「写真は桜の名所として有名な盛岡市の高松の池。花見に来ていた家族が、GIと記念写真におさまった。撮影・池野藤兵衛」とある。池野藤兵衛とは木津屋の本家の当主、池野友子さんのお父上ではなかろうか。写真には妙齢のご婦人と女の子がGIと写っているが、年の頃からして女の子は友子さんかもしれない。コピーしたがもともと鮮明でないのでご本人しか判らぬであろう。
 同級生には池野友子さん、陽子さん、妙子さんの木津屋の三人娘、それに姻戚関係の土屋さん、昆さんも在籍していたから、華麗な木津屋一族であった。
 
 図書館で調べてみると、「南部藩に初めてやって来た近江商人は、慶長18年(1613)、近江国高島郡村井郷の村井源十郎である。以後、村源を頼って近江商人が多数盛岡へやって来るようになった。 
 天和2年(1682年)、志和村の近江屋村井権兵衛の甥小野善助が紺屋町に移住、井筒屋を開業、善助はのち京都に上って京都井筒屋の始祖となったが、井筒屋系統も盛岡では大商人団となる」と。
 
 ところで、池野家の創業は木津屋のホームページによると寛永15年(1618)である。屋号の木津屋からすると、そのルーツは大阪の木津川筋ではないかと思っていたが、やはりそうであった。
 昨年7月、フジTVのレストランで同級会があったとき、長沢(旧姓池野)さんにルーツのお話をしたら、その後、長沢さんから資料のコピーを送っていただいた。盛岡の近江商人の末裔が滋賀県人会をつくり今でも結束を固めているように、池野家木津屋も同族会をつくり記念誌まで作成しているのだった。かいつまんでご紹介する。
 
 池野氏の始祖は美濃国土岐に居住した土岐一族である。揖斐郡の池野村に移ってから池野の姓を名乗るようなる。(池野家の桔梗の家紋は土岐姓の時からのものという)その後、三河の額田郡岡村の岡城に居住し、名族として数えられるようになった。時代が代わって徳川の時代になると、しばらく浪々の身となって木津川の辺りに居住した。その後、江戸の銀座、水戸の銭座で働くが武士上りには不似合いな仕事であったようだ。そんなとき、木津川で師弟のごとき関係にあった方長老という臨済宗の名僧が、朝鮮との国書改竄事件に連座して、寛永12年(1615)盛岡へ流されたと聞き、池野家のご先祖は盛岡へ尋ねて来たのであった。
 その頃の盛岡はようやく城が出来上がったばかり、商店など殆どなく日常品は物々交換であった。そこで方長老は池野氏に「ささやかでもよい百貨店のようなものを開いて城下の士民に便宜を与えたなら功徳になる」と勧めた。これが創業の始まりであった。
 以来、木津屋は盛岡にあって364年間、天保5年(1834年)に建築された惣門の木津屋藤兵衛家住宅と土蔵は県の文化財に指定され、現在も、池野祐治氏が事務用品のほか、オフィス家具、OA機器の卸小売業を手広く営んでおられる。
 
 一方、池野陽子さんのご実家、六日町の木津屋味噌醤油店であるが、初代の権治氏は天保3年(1832)、志和村の村井権兵衛家から(前述のとおり、ルーツは近江商人)、池野藤兵衛の弟分として池野家に入った。池野権治と名乗って味噌醤油の醸造を始め木津権として発展した。その発展の理由は商法がまじめであったことが挙げられている。家伝の秘薬を無償で配布したり、杜陵小学校の建設にあたり無償で土地を提供したという記録がそれを物語っている。
 木津屋が方長老から授かったという家訓は、
 一、慈愛を本とすべし
 一、正直を守るべし
 一、自他利益を旨とすべし
 一、平等に客を敬うべし
 一、遵法奉公を重んずべし。
そしてその家訓は現在も社訓として受け継がれている。
(2002・7・1 八柳 修之

(訂正)田口絢子さんより、佐藤(旧姓)池野友子さんのお父上は金四郎様ではないかとのご指摘を受けました。ご指摘のとおりでした。
なお、金四郎様は池野惣本家(木藤)10代目藤兵衛(健三郎)氏の弟さんに当ります。お詫びして訂正します。

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