e−たわごと No.052

投稿日 2003/07/18  「冷麺物語」(要約) 1
寄稿者 八柳修之

 HP5千件アクセスニアピン記念として小松代さんに送られた盛岡冷麺、いまやわんこそばを凌ぐ盛岡の名物になっているという。私が住んでいた頃には盛岡冷麺はなかった。「なぜ盛岡冷麺なのか」を掲示板に書き込んだところ、山中さんから盛岡冷麺に関する新聞切り抜きが送られてきた。1993年11月18日から22回に亘って朝日新聞盛岡版に連載された「冷麺物語」(小西正人記者)の特集である。
 それは、なぜ盛岡は冷麺を受け入れたのか、私の疑問に答えてくれるものであった。山中さんは私と同様関心があったから切抜きしていたと思った。
 だが読んでみると、この物語の副題「日本と韓国・朝鮮の間に横たわるもの」とあるように、初めて冷麺を作った青木氏を始めとする韓国・朝鮮の人々の苦難の歴史が冷麺誕生と並行して描かれているからでもあることを知った。
 山中さん所蔵のスクラップをみなさんにも是非ご一読の上、お考えいただきたいと思い、19日の同級会の席で隣に座っていた冷麺好きの梅本万理子さんにスクラップをお渡しした。順次、読み回しされることを期待する。
 回覧には時間がかかると思うので、小西の意図をどれほど理解しているか心もとないが、プロジェクトX風に私なりに2回に要約、予告編として紹介する。
 

『盛岡の冷麺は、本場である平壌の冷麺とは全く違う。盛岡の麺は半透明で太いが、本場はそば粉が混ざり黒っぽく細い。スープも盛岡は牛骨中心でコクがある。本場ではトンチミ(大根の水漬け汁)ベースでさっぱりの味、キムチをのせないことも多い。

 盛岡で初めて冷麺を作ったのは食道園の青木氏である。青木は1914年咸鏡南道咸興市(ハムン)の地主楊家の三男として生れた。1938年、23才のとき勉学のため日本に渡る。40年、創氏改名により青木輝人に、この年太平洋戦争勃発、日本人女性と結婚。43年、父親の知人を頼って盛岡に疎開、林野局の下請で木炭の運搬する会社で事務員として働く(軍需産業として認められ徴用を免れた)。45年終戦、朝鮮は解放されたが帰国しなかった。父親に結婚を反対された妻との間に生れた長女が大きくなっていた。49年東京に戻ったが不況のどん底、屑鉄屋を始めようとしたが失敗、失業状態が続く。半年以上たって中華ソバの屋台を買った。よく売れたが夏場は全く売れず廃業。切羽詰まった思いで知人の経営する数寄屋橋の食道園に駆け込みで働いたが、店主の事情で店は数ヶ月で廃業。しかしここで冷麺と再会した。
 職を失った青木は53年再び盛岡へ。パチンコ屋の支配人をしているうちに友人から「朝鮮料理店」をやらぬかと勧められた。53年5月、借地で「食道園」を開店、テーブル4つだけの店だった。店の後にはアカ川と呼ばれるどぶ川が流れていた。少年時代に毎日食べたあの咸興(ハムン)の冷麺を再現しようと思った。頼りになるのは「舌の上」に残る記憶だった。だが、盛岡の市民からは最悪の評判で迎えられた。「ゴムを食わす気か」「人間の食うものではない」と。だが、日本人の味覚に合わせようとはしなかった。「だって、日本人の味覚なんてわからないじゃないか」と青木は言った。しかし麺だけは意識した。そば粉の代わりに小麦粉を混ぜ、重曹を加えて半透明の麺を作り出した。一杯150円、封切り映画が120円の時代であった。「平壌冷麺」という暖簾をかけた。やがて近くのシャンソン喫茶「モンタン」に集う若い芸術家達、キャバレー「蘇州」のバンドやホステスの間に冷麺の噂が広まった。客の方から冷麺に近づいて来たのだった。62年、青木は日本に帰化した。
 青木に次いで、66年に「明月館」が、78年に「ペコ&ぺコ」が開店した。いずれも朝鮮半島の人々の受けた苦難の歴史があるが、ここでは割愛する。
 
 86年に盛岡市などが主催した「ニッポンめんサミット」があった。それまで盛岡では冷麺は「平壌冷麺」の名前で浸透していたが、日本人主催者のアイデアで「盛岡冷麺」の大きな看板が立った。日本人の製麺業者が半生タイプの冷麺を開発し、盛岡冷麺のブランドでお土産用として売り出した。
 これに対して在日一世は「祖国の食文化を、日本人が味を落とした上に勝手に日本の物にした」と反発した。
 
 87年に開店した「ぴょんぴょん舎」は盛岡冷麺を看板にした。在日韓国・朝鮮人の店としては初めてであった。一世の怒りに二世の邊(ピョン)は戸惑った。だが、「朝鮮半島生まれでも盛岡で受け入れられれば、名前も変わるものだ」という二世の先輩の声もあって、初めて盛岡冷麺を名乗った。
 邊にとって、盛岡冷麺の味を確立させることは、日本生まれの在日韓国人二世としての自分自身の在り方を確認するということと、オーバーラップした。これが一世に対する二世の返答だと思った』
 
 冷麺物語は、この邊が青木を訪ね青木の苦労話などのストリー、邊とともにルーツを求める旅はすることから始まり、ここで終わっている。次回は私の疑問、なぜ盛岡人は受け入れたかの謎に迫る。乞うご期待。
(7・18 八柳 修之
(出典:小西正人:冷麺物語 1993年11月〜12月 朝日新聞盛岡版22回連載)

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