e−たわごと No.077

投稿日 2003/12/14  トーテムポール
寄稿者 八柳修之


 

 袰岩さんが撮影した岩手公園の初積雪風景、姉妹都市のカナダのヴィクトリア市から贈られたというトーテムポールは、残念ながら背後の木々と重なりあまりはっきりとは見られないが、トーテムポールのことで思い出したことがある。

 最近は旅行をしてもお土産品の類は買わぬことにしている。マンションにはもうスペースがないからだ。しかし、特別な思い出のあるお土産、もらい物は捨て切れない。狭いマンションだが高さ30センチほどの木彫りのトーテムポールを飾っている。24年前に伊藤(旧姓佐野)紘子さんご夫妻から頂いたものである。

 1979年7月、私はAパルプの製材所建設のことでアラスカのシトカへ出張したことがあった。なんとアラスカの一都市、シトカで中学卒業以来、実に26年ぶりに佐野紘子さんにお会いする機会があったのである。
 シトカの町はバンクーバーからアラスカ航空で3時間余、人口9千人ほどの町、昔はロシア領アラスカの首都であった所である。
 空港にはN社長が出迎えてくれたが、「今晩、私の家で歓迎会をするが、あなたのことを待っている女性が来ますよ」と一瞬どきっとする話があった。だが、すぐその人が佐野さんであるということがわかった。風の便りに佐野さんは、Aパルプにお勤めの伊藤さんという人と結婚されたことを聞いていたからであった。《蛇足だが、7月のクラス会で長沢(旧姓池野)さんに(3年B組で席が隣の同士であった)、Nさんは長沢さんの知人であるということを伺った。因みに私の前の席は梅原君と佐野さんであった》

 26年ぶりの再会であったが、あまりお互いのことは話さなかったように思うが、地元のコーラスグループに所属し活動していること、アラスカといえば酷寒の地と思うでしょうが海洋性気候であり、物資は空輸されて何でもあることなど。(ご夫婦と3人で撮った写真を見るとスイカ、サクランボなどが写っていた。ここで髪ふさふさの24年前の私の姿を紹介してもよいのだが、伊藤さんの了解なしにはできない)。
 パルプ工場は主に伊藤さんが案内してくれた。伊藤さんは化学エンジニアで、生産技術の革新により広葉樹からも低廉な化繊用パルプの生産が可能となったことを専門的に説明してくれたことを記憶している。 
 シトカは風光明媚な島、紺青の海に浮かぶ多くの島々の風景を日本人の間ではアラスカの松島と呼んでおり、対岸にはシトカ富士とも呼ぶ火山が聳え、景観地であった。そして休日、伊藤さんには鮭の遡上を見にも連れて行っていただいた。また江戸時代、漂流民がシトカに一時滞在していたこともあって、ヤポンスキーという地名もあることなどの話は興味深かった。(注:)

 81年、伊藤夫妻が一時帰国した際、銀行に訪ねて来てくれ昼食をしたことがあった。だが、それ以来お二人にはお会いしていない。名簿によると横浜の港南台にお住まいである。以前、港南台には休日、買い物に出掛けていたので、あるいはどこかですれ違っていたかもしれない。だがあれから20年余、私は髪も薄くなり私とは判らぬであろうし、白内障予備軍である私も一目見ただけでは佐野さんとは判らぬであろう。

 トーテムポールの裏をひっくり返して見ると細かい字で説明書があった。虫眼鏡で見るとこう書いてあった。「雷鳥のトーテムポール。北部地方の原住民は雷鳥のことを強い力を持った神であると信じています。そしてこの神の許で友愛と平和と安寧が守られます」と。
 どうやら、我が家はお陰様でこのトーテムポールの庇護のもと平穏な毎日を過ごしている。 


注):後日、調べて解ったことだが、その漂流民は重吉といい、江戸時代、遠州灘で台風に遭い1年5か月漂流後、カルフォル二アのサンタバーバラ沖で救出された。その後、イギリス船で択捉島まで送ってもらい、国後島を経て根室に上陸、漂流してから4年後の帰国であった。そんなことがあってシトカと根室は姉妹都市となっている。姉妹都市というのはなんらかの関係があるものだ。
(12・14 八柳)

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