e−たわごと No.087

投稿日 2004/03/30  西行花伝
寄稿者 八柳修之


 

「清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 こよひ逢ふ人 みなうつくしき」
                     
(みだれ髪 与謝野晶子)
                       
「ねがはくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの もち月のころ」
                     
(西行法師)

さくらを歌った上の二つの歌、あなたはどちらの歌がお好きですか?
昔から日本人は桜に寄せて喜びや悲しみを感じてきた。ことに散る桜は、「美しいもの」「潔いもの」「はかないもの」として、西行の歌から、海軍兵学校の同期の桜まで人の命と重ね合わせてきた。
上の歌、二題はよく知られた歌であるが、私は西行の歌よりも与謝野晶子の歌がよいと思っている。西行の心境にはなれない。

ところで、西行は「漂泊、隠遁の歌人」として広く知られている。西行が妻子を捨て出家したのは弱冠23歳でした。西行はほんとうに世を捨てたのか。なぜ彼をそうさせたのか。その謎に迫る高著がある。辻邦生の「西行花伝」(新潮社)である。

辻は、歌人としての西行を評価しつつも、これとは別に現実の世界で生きる西行の姿を描いており興味深かった。
西行は出家したと言いながら、隠遁出家の姿とは違う政治的活動家ともいうべきもう一つの姿があったのである。
佐藤義清、出家前、鳥羽天皇を警護する北面の武士に過ぎなかった西行は、平清盛とは同僚であった。
しかし鳥羽院の中宮、待賢門院との恋に破れ、歌人として登場することで、時の最高実力者の藤原頼長にとりいる機会を得ていく。また清盛が時の権力者になったときも、高野山の僧侶として高野山への税の免除を頼み成功している。いわば世俗的なやり手な僧としての姿も見ることができるのであった。

平氏崩壊後は源頼朝に接近、西行69才のとき、重源上人に頼まれ遠縁にあたる藤原秀衡に東大寺大仏再建のために砂金の勧進を願うため平泉へ出掛けている。その途中、鎌倉で源頼朝から奥州平泉探索の密命があったとしている。
西行は頼朝の野望とやがて自分のルーツでもある藤原氏の運命を感じとったであろう話など、辻は見事な筆致で西行の葛藤を描いている。

「私(西行)の眼が、白河の関を越えてから、山河の地形に独特の注意を払ったのは、追討の大軍が攻め込んだ場合の動きを想定していたからであった」(p265) 「重源もそのことを暗に私(西行)に納得させて、奥州藤原の内情密告と引き換えに、奥州藤原から勧進した砂金、財宝を安全に京都まで運ばせる保証を、鎌倉殿から手に入れように望んだのではなかたか」(p472)
こうしてみると、どうも西行は漂泊、隠遁の歌人ではなかったようである。

やがて、秀衡は源頼朝に滅ぼされ藤原三代に栄華は終わり、その2年後に詠んだ歌が、
「ねがはくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの もち月のころ」の歌であった。秀衡に会った4年後の1190年2月16日、西行は72才でその生涯を終えた。新暦では3月23日ころになるというから、まさに望みどおりだった。自死、餓死という話もあるから、みずから桜の時期を選んだのであろう。

蛇足だが、西行は32才、基衡のときにも平泉を訪れている。そのとき詠った歌。
「聞きもせず 束稲山の桜花 吉野のほかに かかるべしとは」
束稲山の桜は吉野の山に匹敵するほど素晴らしい桜であったようだ。平泉の束稲山の桜は主を失ってから、手入れする者もなく消え去ってしまったのであった。
 
(3・30 八柳)

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