e−たわごと No.099

投稿日 2004/06/21  「調査要約」 盛岡の近江商人(3)
寄稿者 八柳修之

 

〜盛岡の近江商人の系列〜

これまでの記述と重複するところもあるが、まとめてみると次のとおりである。

○盛岡・村井系

▽近江屋市左衛門(村井)=「近江屋」を称した代表的な商人で、元の盛岡郵便局付近に店を構え、初め酒屋、のちに呉服屋、質屋を営んだ。暖簾名を「村市」と呼ばれ、この系統から材木町の「近勘」など有力商人が生まれた。


▽大塚屋伊兵衛(駒井)=初め村井「近江屋」を称したが、郷里の名と姓を取って、新しい屋号になった。のちに、紙町、鍛治町、鉈屋町などに分かれて酒屋を営み盛業した。有力なのは鉈屋町の「近藤」(近江屋藤兵衛)で、初め「村市」で修業し「善印」の支配人を務め、鉈屋町で千石酒屋となった。
 駒井一族は現在も県内各地で繁栄している。


▽近江屋治郎兵衛(村井)=長く「近江屋」と称したが、この系統はのちに旧姓の「平野屋」を称して多くの分家を生じ、商売も酒屋、質屋、古着屋、雑貨商など多彩だった。その一人の「平野屋治郎兵衛」は、暖簾名を「平角(ひらかど)」と称し、俳諧の平野平角で名を成した。「平野酒造」「河権」(雑貨)」などはこの系統、また宝暦の御用金表には見えないが、永田屋卯兵衛(永卯)、近江屋源之助(村源)など多くの系列を生んでいく。


○志和・村井系

井筒屋善助(小野) 初め紺屋町に分家して「井筒屋」(善印)を称し、その後、清助と店を交換して新町(呉服町9に移った。「井筒屋」の実質本家で、後には両替商を営み、「小野財閥」をつくった(*)


近江屋藤兵衛(近藤)、井筒屋弥兵衛(「井弥」)、藤田屋久蔵(「藤久」)、恵比須屋助右兵衛門(「恵比須屋」)などは支配人の出身だった。

(*)幕末から明治初期に中央経済界にすい星のごとく現れて消えた小野組、三井組(三井財閥)とともに第一国立銀行を設立したが、明治7年(1874)
に破産したが、まぎれもなく盛岡の近江商人だった。

▽井筒屋清助(小野) 大溝村の村井善五郎の四男、志和の初代権兵衛の養子となり、新町(呉服町)に分家、「善印」と交換して「紺印」を称し、明治初年まで繁栄した。法律学者小野清一郎は家系である。

井筒屋権右衛門(小野=郡山(日詰)に分家した「郡印」の盛岡の出店で、本店をしのぎ、文化・文政ごろにかけて盛業した。この支配人から「井筒屋市郎兵衛」「鍵屋又八」などの有力商人が出ている。以上の三家は「井筒屋御三家」と称された。

▽多賀屋甚助(小野)=「多印」の初代は村井甚右衛門で近江の国元におり、志和の3代権右衛門と4代権兵衛はその次男と五男であった。

▽芳野屋宇兵衛(小野) 2代権兵衛の養子で大溝の生まれ、「芳印」と呼ばれて質屋、呉服屋などを営み盛業した。 (以下つづく)

 

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