e−たわごと No.103

投稿日 2004/06/27  黄金郷
寄稿者 八柳修之


 

近江商人が盛岡を目指してやって来た大きな要因には南部領で産出する金にあったこと、そして産金に熱心であった南部利直が鉱山師を優遇し、鹿角、佐比内を始め領内に20ヶ所の金山を開発したことはすでに述べた。

昔から岩手はわが国有数の産金地として広く知られていた。藤原四代の栄華、金色堂に代表される黄金郷。義経記に見ゆる謎の人物金売吉次は、京都三条に屋敷を構え、毎年、隊商を率いて奥州を往復する大商人であった。金を求めてジパングを目指したマルコポーロもまたその一人であったし、もし平泉にやって来たとすれば、歴史も変わっていたであろう。

藤原時代の金山は、陸前高田の玉山金山、和賀郡湯田の鷲之巣金山、江刺の大野・小屋沢・古歌葉・中山金山、東磐井郡大東の峠金山、藤沢の保呂羽金山が知られている。いずれも、平泉を中心とする県南(伊達領)にあった。

当時は金山といっても、「赤土」と呼ばれる砂金山を露天掘りするか、砂金を含む河原の土砂を掘るもので、土砂を水洗いして、砂金を選り分けるものであった。鉱石から金銀を抽出する技術は、1533年、朝鮮から石見銀山(島根県)に伝えられた「灰吹法(はいふき)」という方法であった。これは、@金・銀の鉱石に鉛を加えて吹きたて、滓を取り去って鉛と金・銀の合金をつくる。Aその合金をさらに灰の上で吹きたて、灰に鉛をしみ込ませて除去し、金・銀を残すというものであった。

近江商人が盛岡へやって来た1600年代当時、この「灰吹法」はすでに確立されていた。「金山からめ節」にある「からめる」とは鉱石を選別する作業のことである。南部利直が金山開発奨励の結果として発見された鹿角尾去沢の白根金山、紫波の佐比内金山についてみてみたい。

鹿角尾去沢の白根金山

白根金山は慶長3年(1598)、南部藩士の北十左衛門が尾去沢の白根に発見したのに始まり、慶長9年(1604)には南部利直が家康に黄金1千枚、砂金50斤を献上したという記録がある。その後、銅の産出が主流となり、1765年、藩はこれまで商人に請負わせていた経営を直営とした。産出した銅は花輪、田子、五戸、野辺地から西回りの海運で上方に運ばれた。今でもこのルートは銅の道と呼ばれている。

慶応4年(1868)、南部藩は鍵屋茂兵衛に試掘権を委任。その後、新政府井上馨大蔵卿による尾去沢銅山強奪事件が起り、これに巻き込まれた鍵屋村井茂兵衛は財産を差押えられ処分されるという理不尽な、世にいう「尾去沢事件」があった。ここではその内容は割愛するが、鍵屋が南部藩に二万五千両もの融資をするほどの豪商であったことを言いたかったのである。

紫波の佐比内金山

私は紫波の佐比内という所に金山があったことは、これまで知らなかった。紫波郡彦部出身の阿部和徳さんならオベデいるかもしれない。

佐比内金山はキリシタン鉱山師の丹波弥十郎が一千人の信徒を連れて採金にあたったという。1612年にキリスト教禁止令が出されているから、おそらくキリシタンをしょっ引いて来て強制労働させたのであろう。

その当時、商店・傾城屋などのサービス業を含めて人口三千人を超える鉱山町が出現したというから、相当大きな町であったことが窺がえる。

現在の佐比内地区はどんな町であろうか。HPを検索すると、毎年8月のお盆に「佐比内金山太鼓祭り」が開催されている。

村井新七を宗家とする「内和」の第一号となった村井(小野)権兵衛が、志和村に独立して村井「近江屋」を創立したのも、そこに目をつけた近江商人の卓越した経営感覚にあった。志和で酒造業を営み、これをベースに三井組とともに第一国立銀行を設立する財閥、小野組へと発展していったのであった。
 

(参考資料):

「奥州の産金と金売吉次伝説」斉藤利男 歴史読本93年6月号、新人物往来社、 「金売吉次をさがせ 東北歴史推理行」 高橋克彦 徳間文庫、 「近江商人 東北の末裔たち」 近江商人末裔会 限定本、 「岩手をつくる人々」森 嘉兵衛 法政大学出版、尾去沢マインランドHP、 佐比内金山太鼓保存会HP

(6・27 八柳修之)

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