e−たわごと No.104

投稿日 2004/06/25  吉村早生(2)
寄稿者 八柳修之


 

東北農研から分厚い封筒が届いた。お役所仕事の先入観を破るスピードである。私も資料を異例のスピードでむさぼり読んだ。そして広報担当が、陸羽132号が農事試験場陸羽支場(秋田県大曲)で育成されたにもかかわらず、育成者名を明らかにするには、そこにはある事情があったからと分かった。

陸羽132号は、一般に陸羽支場主任の寺尾博により育成されたとされていた。寺尾博は東大出のエリート、のち国立農事試験場長となる作物育種の先人とされた人であった。その華麗なる経歴は、小説の吉村貫一郎の次男、同じく貫一郎とダブルものがあるが、どうやら違うようでモデルではないようである。ちなみに寺尾は静岡の出身である。

寺尾は大学を出てすぐ、国立農事試験場本場種芸部員兼任で陸羽支場の主任として着任する。その頃、東北に冷害が多発していた時期であり、遺伝学を学んだ寺尾に対する期待は大きかったようである。

寺尾の下に助手として抜擢されたのが、寺尾より年上の農学校出の仁部富之助であった。冷害に強い陸羽20号と味のよい亀の尾の交配は最初から考えられていた。交配はハサミとピンセットを使った細かい作業であった。風に邪魔されないよう温室での作業は灼熱地獄、得られた種子はわずかに2粒だった。

寺尾は本場(東京西ヶ原)との兼任、海外出張したりしたこともあって、以後、増殖、選抜、固定という作業は、仁部等の7年間にわたる根気の入る作業の成果であった。しかし、その育成者は長年寺尾とされて来た。このような世界ではよくある話である。

昭和30年、作家石上玄一郎(盛岡出身)が、寺尾の功績によるものではないと日報や秋田魁に書いた。寺尾も後年、仁部の異常な苦心と努力を称えたという。

仁部は、最初から最後までこの仕事に関わった。しかし仕事一筋だけではなかった。仁部には野鳥の観察というライフワークがあった。のち、鳥のファーブル、わが国野鳥研究の祖と呼ばれ、大著「野の鳥の生態(全5巻)」を出していることを知って、なんとなく救われた。
結局、吉村貫一郎(次男)のモデルは特定できなかった、ということで、話は終わるのだが、実は私には思わぬ事実の発掘があった。

この一連のプロジェクトX、陸羽132号の増殖、選抜、固定作業に伯父の柿崎洋一が関わっていたことを知ったのである。伯父は農学校出であったが、農学博士にまでなった人で、父が同じく農学を志すことに大きな影響を与えた人であった。不思議な縁で、父が東安庭の試験場に赴任する前の場長でもあった。戦後は試験研究から離れて、八郎潟の干拓事業やJICAの前身、海外移住事業団で南米移住の仕事をした。現在、74才になる従姉が伊勢崎で一人暮らしている。白梅に通い、隣に住んでいたので学校まで連れて行ってもらった。その従姉には、平成3年、父の葬儀以来、会っていない。いずれ、資料を携えて会いに行かなくては・・・・
 

資料:「こめの履歴書 品種改良に賭けた人々」山本文次郎 家の光協会、「秋田県経済連史」(1973) P72~79、「胆江日日新聞」昭和57年7月26日付、8月5日付、8月6日付、10月18日付

(6・25 八柳修之)

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