e−たわごと No.105

投稿日 2004/07/22  南部杜氏
寄稿者 八柳修之


 

南部杜氏の生みの親は、近江商人、小野組の祖、初代小野権兵衛である。

権兵衛は盛岡の村井新七家で修業した後、寛文7年(1667)に分家第一号として、志和村(紫波町)に独立し「近江屋」を名乗ったことは先に述べた。

権兵衛は商いのほか、酒造技術も身につけていて、当時知られていなかった「すみ酒」の製法に通じていた。清酒を売り出したのは延宝6年(1678)、高度成長時代が始まる元禄期の少し前、飛ぶように売れたのはいうまでもない。

権兵衛が志和に進出した理由は、どこにあったのであろうか。

志和村は古くから米どころのうえに、南昌山を水源とする滝名川(現在の地図をみると水源は山王海ダム、中学時代遠足に行きましたね)の良質な伏流水にも恵まれていたこと。また志和村は盛岡と花巻の中間の宿場町であったこと。佐比内金山の開発で多くの人が集まったことなどが挙げられる。

権兵衛が酒造を目玉にした商売を志和村で展開したのは賢明だった。

権兵衛が伝えた「すみ酒」の技術は当時、最高水準を誇った大阪「池田流」であった。製法については省略するが、特に生産性において優れていた。生産性は仕込み米に対してできる酒量を示す滴(たれ)数で決まるが、宝暦期トップクラスの仙台の滴数は7滴前後(米1石で酒7斗)南部は11〜12滴であったという。「池田流」は江戸中期ごろにかけて全盛し、その後、「伊丹流」や「灘流」が登場するようになった。

また、当時、南部藩が二万人に近い人口を養うため、紫波平野の新田開発に力を入れていた時期でもあった。金山師鎌津田甚六が「鹿妻穴堰」を通し、雫石川の水を大田、本宮方面に注ぎ込むのに成功したのは慶長5年(1600)、滝名川をはじめ、南昌山から流れる水の利用も進められ、各地に「新田村」が生まれた。志和村は紫波平野の南の中心として、商人にとって格好の土地だった。

「濁り酒」の味しか知らなかった盛岡の武家や庶民にとって、「すみ酒」は、堪えられない美酒であったであろう。権兵衛は大いに当たり、数年にして財を成したと伝えられる。掛売りもしたというから、その結果、借金で身上を潰し、田畑を手放し小作人となって酒造米を作るという悲劇もあったという。

権兵衛家は絶えず関西地方から杜氏を招いて技術の改善をはかった。

そして、南部杜氏という出稼ぎ技術集団へと発展していくには、いくつかの条件があった。その一つは、権兵衛家の自家醸造の割合は約6割、残りの4割は「引酒屋」と呼ばれる農家への委託生産であった。引酒屋は家内工業なので親から子へと技術が伝承された。また品質を統一するために、権兵は専属の杜氏を巡回し技術指導した。二番目が「稲こき千刃」という脱穀機が登場したことであった。これにより脱穀作業が10倍も能率向上したことで、米の収穫後は杜氏として早い時期から出稼ぎが可能となったことであった。

権兵衛は酒造業の成功を見届けた後、元禄2年(1689)に故郷の大溝で亡くなったが、南部杜氏の技術は脈々と引き継がれている。

我々がまだ酒を嗜まなかったころ、盛岡の造り酒屋さんといえば、村井(あさ開き)、浜藤(岩手川)、平六(菊の司)が御三家であった。(今でも変わらぬようだが) 最後に御三家の略史を簡単に述べ、一連の「近江商人シリーズ」を終わりにしたい。

村井・あさ開き 大慈寺町
南部藩士だった七代村井源三が武士を辞め、明治4年、現在の大慈寺町で酒造りを始めた。「吉村貫一郎」という銘柄の酒が、鍵屋から販売されたが、製造元はこの一族のあさ開きである。送っていただいたKさん、Tさん有難う。

浜藤・岩手川 鉈屋町

もとは近藤(きんとう)といって、近江屋という屋号の駒井藤兵衛が経営していた千石造りの蔵を、明治29年に関口藤平衛門が買収したものである。藤平衛門は明治5年にわずか十石の濁酒醸造の免許を取り、担ぎ売りしたのが始まりであった。

平六・菊の司 鍛冶町

創業元和年間(1615〜1623)、初代平井六右衛門が伊勢松坂から郡山(日詰)に移り、伊勢屋と称し米や雑穀の仲買で基礎を固めた。二代目六右衛門のとき、八戸藩の御用商人として「御蔵宿」の宿元を勤める。その後、安永年間に六代目が酒造業を始め今日に至る。石鳥谷では「七福神」を製造している。

このほか、私の記憶では、川原町に「近三酒造店」、仙北町に浜藤酒造(第一工場)があった。

(参考資料:「近江商人 東北の末裔たち」近江商人末裔会出版、「南部杜氏応援団」ホームページ、あさ開き、浜藤、平六商店各ホームページ)
 

(7・22 八柳)

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