e−たわごと No.108

投稿日 2004/08/24  最初にメキシコに渡った二人の岩手県人(1)
寄稿者 八柳修之

平凡なサラリーマン生活を過ごした者にとっては、波乱万丈の人生を送った人の物語にはなぜか惹かれる。もう一度、生まれ変わっても、小心者には到底できないことではあるのだが・・・・
図書館で「シエラマドレの熱風」(川路賢一郎著)という本を見た。
明治30年(1897)、最初にメキシコに移民した団長格の照井亮次郎の伝記である。読んで見る気になったのは照井が花巻出身(宮城農学校出)であったからであった。移民といえば沖縄や西日本からの人が多い中で、当時、岩手からの移民、とりわけメキシコへの移民は珍しいと思ったからでもあった。そして、その姓から照井順子さん(旧姓石沢)の関係者ではないかとも思ったのである。
もう故人となられた照井さんにお聞きすることはできないのだが。(石沢さんの思い出は「iwayama1、たわごと24」に書きました)

さて、照井の生涯である。照井は明治新政府、榎本武楊の殖民思想に共鳴し、榎本殖民団に参加、1897年5月、メキシコの地に歴史的な第一歩を印した。
団長格は照井亮次郎、自由渡航者6人、契約移民28人の34名であった。
入植地はグアテマラと国境を接する南部チャパス州のシエラマドレ山脈の麓、アヤコヤワという寒村であった。しかし計画したコーヒー栽培が上手くいかず、1901年に崩壊してしまった。原因は入殖地選定に当たって、政府の事前調査が杜撰で不毛な土地を買い入れたこと、そして、榎本の理念とは違い、ただ移民を送って、当時最も有利といわれたコーヒー栽培で利益を上げようとする輩がいたからであった。(この榎本武楊、幕府海軍の副総裁、江戸開城後、幕府艦隊を率いて脱走し北海道に蝦夷島政府を樹立するも、五稜郭の戦いで降伏。このとき黒田清隆に助命され明治政府の外務大臣などの要職を務め、子爵にまでなった調子のよい男である)

照井は一時、メキシコシティの郊外で農場監督などした後、1906年、再びアヤコヤワに戻り、同級生6人と日墨協働会社を設立、砂糖キビの醸造、牧畜、野菜園、雑貨店など手広く事業を行って成功した。
照井が移民史に名を残したのは、小学校を建て日本語教育に力を入れたこと、ローマ字式の西日辞典を編纂したことであった。(その頃、日本でも岩手福岡出身の田中館愛橘帝大教授によってローマ字運動が推進され始めていた)

だが順調であった事業もメキシコ革命で幾たびか財産の没収、略奪と経済混乱に遭い、メキシコ人の妻にも先立たれてしまい店をたたんだ。1929年、ベラクルス州の一寒村に移り、翌年、56歳で死去、異国の土となった。(続く) 
(8・24 八柳)

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