e−たわごと No.109

投稿日 2004/08/24  最初にメキシコに渡った二人の岩手県人(2)
寄稿者 八柳修之

照井が編纂した西日辞典が右文社という小さな出版社から2,000部発行されたのは1925年のことであった。照井はその緒言で、こう述べているという。
「榎本子爵が計画した墨国殖民ついて、我らはスペイン語国民中に孤立して存在し、色々と辛酸をなめ尽した。誤解を取り払う事ができず、無実の罪も解らず、当然の権利も主張することができず、日夜、無知の現地住民からあびせられる理由のない嘲笑にすら答えることもできず、屈辱の恨みを尽くし悲憤の涙に送った日月は幾許であったろうか。これは実に形容できない一種の悲劇だった」これが、照井が33年間のメキシコで暮らした総括でもあった

1917年、照井は貿易交渉のため、一度、日本に帰国している。その折、照井は同郷の幼馴染の女性をメキシコへ連れて行っている。名前は小田島リュウ、二度結婚に失敗したが、かなり教育を受けた女性であったらしという。

メキシコとゆかりの深い利根山光人画伯は1983年の講演で彼女のことをこう語ったという。「あのような時代に、そんなにハイカラで気丈な女性が東北の山村にいたというのは驚きです。二人はしばらく一緒に暮らしたが、一緒になることはなかった。その後、オリュウさんは一羽のオウムを携えて一人で日本に帰った。照井は遂げられなかった愛をこのオウムに託したのでしょうか。
二人の間には、それから連綿とした文通が続けられた。オリュウさんは戦後も70何歳まで健在でした。オウムも元気で彼女の故郷の親戚筋にあたる村長に1万円で買われて人気者であったが、死ぬと剥製にされ、いまでも村長さん宅に家宝として残されています・・・・・」(写真は小田島リュウ、雑誌Latin Americanaより)

現在、榎本移民の舞台となった人口3,000人余りのアヤコヤワの村に日本姓を持つ人が400人ほどいるという。アヤコヤワの村には「榎本殖民記念碑」が建てられており、なぜか、裏面には芭蕉の句「夏草や つわものどもが 夢の跡」の句が刻まれているという。
(参考:「シエラマドレの熱風」川路賢一郎著 パコスジャパン、
 Latin Americana、在メキシコ日本大使館HP) 
(8・24 八柳)

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