e−たわごと No.111

投稿日 2004/09/17  MY MOTHER
寄稿者 八柳修之


 
袰岩さんのお庭に咲いたローズマリーの花。彼は学生時代、ローズマリー・クルーニーが主演した映画「ホワイトクリスマス」を何度も観たことを想い出したという。袰岩さんの写真を見た小川さんは、アメリカ滞在中、アメリカンマザーがローズマリーを香料として作ってくれたお料理とアメリカンマザーのことを想い出したという。そして今、留学生を預かってお世話しているモリオカマザーがいる。

この話を、どう続けようか。私にとってのマザーと呼べる人がいないか、考えてみた。(もちろん、実母のことは別であるが)発想が貧弱なのか。どうも、マザーと呼べる人は、飯を作ってくれた人しか思い浮かばないのである。
学生時代の下宿のオバサン、独身寮の寮母、そして単身赴任のときの元食堂のオバハンくらいなものである。

学生時代、下北沢に下宿していた。Nさんと学習院の同級生がいる家柄のよいお家だったが、主が急逝されてから、奥さんが5人の子供の養育のため敷地内に別棟を建て、賄付きの学生下宿を始めたのであった。居心地がよかったのか、このお家に卒業するまでお世話になった。
Nさんの話によると、オバサンさんはまだご健在なようであったが、奥さんにとっては思い出したくない時代であったようだ。もっとも、この話は2年前、Nさんから聞いた話しであるから、あるいはもう他界されたかもしれない。

独身寮が赤坂という所にあったせいなのか、それとも相手が見つからなかったのか、ともあれ8年余も独身寮に根付いた。寮母は北海道の人で、鉱山事故で夫を亡くした母と同じ年の寡婦であった。あまり料理は上手ではなかったが、気まぐれな独身貴族を相手によく働く人だった。家族寮建設の資金捻出のため、独身寮を売却することになり、娘夫婦の住む札幌へ帰った。
私がやっと結婚したとき、お祝いにと熊の彫刻を送って来た。結婚後、2〜3度、我が家を訪ねて来たこともあった。毎年、年賀状のやりとりをしていたが、癌で亡くなったという娘さんからの年賀欠礼があったのは、もう10年以上も前のことであった。熊の彫刻はマンションに引越する際、処分してしまった。

88年、二度目の海外駐在は、二人の子供が高校生になっていたので、単身赴任だった。健康、とりわけ肉食中心の国にあっては、食生活に気をつける必要があった。日本料理屋は少なく、そこの常連になるのは抵抗があった。
そんなとき、アミーゴから「昼間だけだが限られた人に日本食を出してくれる所があるよ」と聞いた。野本さんという一世のオバハンで、以前、小さな日本食堂を経営していたが、82年にご主人を亡くしてから店を閉めていたものを無理やり頼んだものだった。いわばヤミの食堂であった。昼間いつも5〜6人の日本人が出入りするので近所の人々は不思議に思ったに違いない。
この5〜6人のメンバーは、いずれもアルゼンチン人と結婚した一世達だった。年をとると日本食が懐かしく健康によいという。食材を集めるのには苦労するというが、さすが元料理人だけの手の込んだものであった。
「私は金儲けのために料理を作っているのではないですから、お代は皆さんで決めてください」とい人であった。オバハンは心臓が悪く、救心という薬を常用し、無くなると私が日本から出張者に頼んで取り寄せていた。
私の後任も単身赴任であったので引継いだが、しばらくしてもうその必要はないということであった。

私は母のことを「お母さん」と呼び、女房のことは子供達と一緒で「ママ」と呼んでいる。ママは飯(マンマ)を作っているが、だんだん、母のようになって来たようだ。(9・17)

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