e−たわごと No.121

投稿日 2005/01/04  山さん
寄稿者 八柳修之


 
増子義孝さんからの年賀状、「昔、高松の池ではスケート大会が開かれたんだ、と話しても、学生達はウッソーという顔をしています」とあった。
高松の池は結氷し、スケートを楽しむ人で賑わっていることでしょうか。
冬の風物詩、白鳥は到来したでしょうか。

増子さんの「高松の池でスケート大会があった」という記憶は、おそらく昭和23年、冬季国体のスケートが高松の池で開催されたときのことでしょうか。
そのころ、われわれは4年生でした。長野の五味選手、岩手では工藤佑信選手が記憶にある選手、1万メートル決勝のときは風と雪でした。(お正月、タケシの番組を見たが、この年の1月、帝銀事件が起きている)

高松の池=スケート=三浦博孝君の想い出については、すでに「たわごと」No.13に書きました。スケート=高松の池で、忘れてはならぬ人がいる。山さんこと山館鉱一先生である。彦さんの次は山さんです。
山さんは小田忠とならんでお説教が多く、ために授業の進度は遅かった。今なら父兄から苦情が出るところである。でも、山さんは男前であったからか、女生徒に人気があった。とりわけ、万里子さんは一番お熱を上げていました。
なかには山さんに殴られて、いまだに恨みをもって思い出したくない人もいるのですから、これは封印し、スケートのことだけにします。

山さんは、盛岡工専のアイスホッケーの選手であったことから、スケート連盟の仕事が多かった。当時、国内でスケート大会が出来る場所といえば、苫小牧、八戸の長根リンク、諏訪、日光、そして盛岡と限られていたので、5年に1回は国体が廻って来ることになっていた。
5年後の28年、再び国体が盛岡であった。このときはもう高松の池ではなかった。前年、完成したばかりの県営グラウンドの雪を固めて造った特設リンクでの開催であった。当時、初めてのことであったので、このリンクのメンテナンスを疑問視する向きもあったが、山さんは強力な推進者であった。山さんにはそれなりの自信があってのことだった。前年、附中のグランドで実験していたからであった。人海戦術で借り出されて雪固めをしたことをオベデ(覚えて)いますか。

スケートできないが、山さんに「よい質問だ」と言われたことがある。
「なぜ、陸上と違って、スケートではスタート時、計測員が選手の背後でしかも後ろ向きなってストップウォッチを押すのですか?」
「ピストルの音を聞いて押すのがルールなのだが、計測員が特定の選手を見て、早めに押す不正を防止するためだ。君の言うとおり変な慣習だ」
その後、この慣習は陸上競技の方式と同じやり方になっている。

そして、いまや全国津々浦々に屋内スケートリンクができ、スケートはウインタースポーツでなくなった。高松の池のスケートの賑わいは、もう過去の風景かもしれない。でもその分、白鳥はごゆっくりできるでしょうか。
(1・4 八柳)

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