e−たわごと No.128

投稿日 2005/02/27  十一屋(1)
寄稿者 八柳修之
 
「十一屋物語」という本が田口さんから、この本を紹介した新聞切り抜きが山中さんから送られて来た。なにか、書けということであろう。十一屋は欣チャンこと、十一屋13代当主故高橋欣三さんのお店である。欣チャンのことは、iwayama-2たわごと(62)に書いたが、この本を読んでまた書いてみる気になった。

この本の著者は欣チャンの長兄、政祺(まさよし)氏、お医者さんで杏林大医学部名誉教授である。氏には「アルゼンチンのタンゴダンス」などの著もある。
次兄、琢二氏は東北大工学部通信工学科卒、ニッポン放送の技術部長を勤められたこともあるので、ニッポン放送のアナ、パーソナリティであった菊池貞武さんやフジテレビの福田博司さんはご存知であろう。この琢二氏には、ほとんどのみなさんが小学校6年のときの修学旅行で会っている。松島仙台修学旅行のプログラムの中に東北大学見学(さすが附属の修学旅行というべきか)があり、琢二氏が構内を案内してくれたのである。嘘だと思ったら、アルバムの記念写真を見てください。角帽を被った琢二氏が記念写真に写っていますよ。

欣チャンのご兄弟は理系なんですね。山さんのお株を奪うような電気系統に強かった欣チャンは、兄上琢二氏の影響を強く受けたからでしょうか、理科系であった欣チャンが、経済学部に進学したのも、400年も続いている十一屋十三代目を継ぐためだったのですね。
それにしても、髪黒々として30代にしか見られらないことを自慢にしていた欣チャン、62歳で星になったとは、天文にも関心があったとはいえ早すぎました。
前置きが長くなってしまった。本の副題は「南部盛岡の一商家の四百年」、新聞の見出しは「南部商人の才覚と心意気」である。全文265頁、これを何頁で要約できるであろうか。

十一屋の初代祐政(高橋甚右衛門)は武士であった。慶長2年(1597)、南部藩26代南部信直公の盛岡城築城開始ともに現青森県三戸郡高橋村から、武士を辞め刀を捨て商人となる決心をして、一家を上げて盛岡に移住した。時に慶長11年(1601)、穀町に質・綿・薬種を扱う店を構えた。この時から工藤の姓を出身地の高橋氏に改め、また屋号は町人となっても士魂を忘れないという意味で、士を二字に分けて十一屋と号した。ちなみに盛岡城の完成は寛永10年(1633)、28代南部重直公は築城開始30年にして三戸城から盛岡城へ移城している。

二代目、正吉(1603〜1672)は21才で家督を相続、元和元年(1615)には酒造業の免許を得て財を成し、儲けたお金を久昌寺の建立に献金している。十一屋の家訓ともいうべき遺言書(1672年)を残しているが、いま話題となっている一代で財を成した堤康次郎の家憲とは雲泥の差がある。これについては別途、述べたいが、この中に「この頃は酒ほどよい商売はないから、まず第一に酒の造り方を覚えなさい」という項目がある。

三代目、政孝(1635〜1698)は、遺言に従い、今までの商売のほかに造酒業を始め、繁盛し、穀町十一屋の最盛期をもたらした。しかし、この穀町十一屋は3代後に火災で全焼、破産し名跡も絶える。
正吉は次男の政ひら(高橋五六作)に六日町の泉屋喜右衛門から酒造株を買ってやって分家させている。これが現在の十一屋となる。政ひらには子供がいなかったので、穀町十一屋の次男の政福(1679〜1737)を六日町十一屋の二代目とした。政福は非常なやり手で、本家を凌ぐほどとなり、盛岡一の酒屋にのし上げ、酒屋支配元の地位を得ている。(注:「享保十四年(1729)酒屋支配元仰付ケラレ苗字帯刀御免ナリ」)
しかし、大火があり本家、分家とも残らず焼失しまう。この大火で本家は再興できなかったが、政福の分家は再興し質屋をやめ造酒業に専念することとなった。

さて、ここで最初に盛岡に移住した近江商人は、慶長18年(1613)にやって来た村井伝七であり、その伝七を頼ってやって来た小野権兵衛(小野組の祖)が、新しい酒造技術をもたらし、南部杜氏の生みの親であることを述べた。(たわごと97〜100)この権兵衛の酒造りとの関係につき次回で述べたい。盛岡商人VS近江商人か。これは面白いぞ。
(続く)
※「政ひら」の「ひら」は草冠に毛(常用漢字外)

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