e−たわごと No.129

投稿日 2005/03/02  十一屋(2)
寄稿者 八柳修之
 
分家(六日町十一屋)二代目政福の後、三代目は政宥(1717〜1748)である。
政宥は穀町本家の六代当主、政次(この代で途切れる)の妹と結婚している。
酒造業は益々隆盛で、二代目正吉が徳川二代将軍秀忠から貰った書を南部公のたっての所望で献上し褒美を貰ったという。大火の際、家財を放り出して守った家宝なのだが、
Noと言えないのが庶民の辛さである。しかし、藩公の知遇を得ることもでき家業も順調であったが、一人娘を残して38才の若さで死亡してしまう。

分家四代目にワンポイントとして起用されたのが、政宥の弟の政敏(1718〜1767)である。しかし、宝暦5年(1775)、38才のとき、凶作飢饉が起こったため酒造業を廃業せざるを得なくなり、ここに約100年に亘った十一屋の酒屋時代に幕を閉じたのであった。

ここで、十一屋物語にはないが、近江商人が始めた酒造業との関係を少ない資料からみてみたい。
盛岡に最初にやって来た近江商人は村井伝七、ときに慶長18年(1618)であった。この伝七を頼ってやって来たのが小野権兵衛。分家第一号として、志和村に独立して「近江屋」と名乗ったのは寛文7年(1667)、そして、清酒を製造し売り出したのは延宝6年(1678)のことであった。

十一屋二代目、正吉が酒造業の免許を得て酒の販売を始めたのは、元和元年(1615)である。権兵衛が酒造を始めるまでの63年間は、十一屋には有力な競争相手はいなかった。儲けたお金で久昌寺を建立したことは先に述べた。
二代目正吉は、のちにライバルとなる権兵衛「近江屋」の酒を見ず70才で亡くなっている。
三代目政孝は、明暦3年(1657)、23才で結婚、酒造業を本格的に始め黒沢尻に出店を出すほど儲けたという。「近江屋」が現れるまでの10年間は隆盛を極めたものと推測される。しかし、やがて、「近江屋」にとって代わられるときがやって来た。酒の製造方法(生産性、味、販売方法)に差があったことである。
前にも述べた(たわごと105)が、権兵衛が伝えた技術は、当時、大阪で最高水準を誇った池田流、「すみ酒」の技術であった。それまで、「濁り酒」の味しか知らなかった盛岡の武家衆や庶民にとっては、堪えられない美酒であったであろう。
池田流は生産性に優れ、また上方から杜氏を招き技術の向上をはかったこと、新田の開発による原料の確保、掛売りもしたというから、商売は発展していったと想像に難くない。

一方、十一屋には正吉の遺言の中に掛売りを禁ずる条項があり、これを固く守ったものと思われる。そして、十一屋にとって決定的ダメージは、享保14年(1719)の大火であろう。この享保の大火は大沢川原から出火して中津川を越え、穀町、六日町の十一屋ともに焼失してしまったのである。六日町十一屋は再興を果たすが、ハンディを負い、やがて飢饉により廃業へと追い込まれ、のち1775年、旅館業を始めることになる。
(続く)

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