e−たわごと No.130

投稿日 2005/03/08  十一屋(3)
寄稿者 八柳修之
 

 
四代に亘り約100年も続いた酒造業に、やがて転機が訪れる。宝暦の飢饉により、食う米にも困り酒米は確保できなくなった。くわえて権兵衛の近江屋の台頭もあって、ついに宝暦5年(1755)に酒造業に幕を閉じた。

同年、四代正敏は、亡兄政宥(まさひろ)の養子政満(まさみつ、1728〜1795)に家督を譲った。分家五代目となるが、本家は絶えてしまったので、十一屋七代目ということになる。
政満の妻は政宥の一人娘、つや、十一屋として始めての女系の相続であった。政満は宝暦9年(1759)に旅館業を始める。造り酒屋であったので敷地も広く、奥州街道の入口に位置する地の利、南部公とのコネクションもあったのか、南部藩の支藩八戸候の御定宿ともなった。賢明なる転業であったといえよう。
この旅館業は以後三代、80年も続くことになる。旅館業は順風万帆。
政満は趣味多芸、酒を好み、狩野梅笑信景について絵を習った。元真政景という画名をもらっている。写真は政満の自画像である。政祺氏によると、宿屋の主人というものは大体暇なもので、先祖の中で底抜けの明るさを感じ、子宝にも恵まれ無事安穏な生涯を送り、当時としては高齢の68才でこの世を去った。

注目すべきことは、四番目の男の子、三治を5才のとき木津屋池野氏に養子に出していることである。のち、三治は木津屋本家を継いだ池野藤兵衛である。
これは当時、商略結婚というようなもので、馬の骨とは婚姻せず、筋のしっかりとした先と婚姻することで、両家にとって商売上の信用の拡大を意図したものであったと思う。
次の八代目は政収(まさもと、1760〜1827)、父、政満の死後、36才で家督を相続している。彼もよい時代に生まれた人であったと政祺氏は述べているが、文化3年(1801)、穀町に火事があり、類焼するという被害があった。このとき、家を建て直すため、南部藩から借金をしているが、池野藤兵衛が借金の保証人となり、この借金で旅館の普請が出来た。

九代目は政愛(まさき、1788〜1842)、父の政収の死後、40才で家督を相続した。二度も妻に先立たれるという不幸な人生であったが、社会的には天保4年(1833)の飢饉のとき、米穀差配を勤めている。十一屋が藩の凶作用の保存米に関係した始めで、親子二代に亘ってこの御用を勤めることとなる。また二度目の後妻として、近江屋村井勘六の養女を迎えている。近江商人との関係もできたが、翌年の天保6年、八戸候の定宿を他の者が願い上げ認められたため、御免となり、これが原因で旅館業を止めることになる。
さて、旅館を廃業した十一屋、次なる商売はなにを始めたのであろうか。
(以下次号)

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