e−たわごと No.131

投稿日 2005/03/08  十一屋(3)
寄稿者 八柳修之
 
天保13年(1842)、政愛(まさき)亡き後、長男、政直(まさなお、1817〜1874)が十代目を相続した。政直は旅館業をやめ、小間物、文房具、書籍の販売を始め、十一屋福善堂と称した。叔父の政意が紙町に分家し十一屋錦雲堂という書籍の出版、販売をしていたので、それを真似たものであろうという。
幕末から明治にかけては激動の時代であった。南部藩は幕府の命令でロシアの侵略に備えて松前への出兵、凶作による百姓一揆の頻発などで藩の財政は火の車、商家は多額の御用金の徴発に苦しんだ。藩の凶作保存米の役先であった十一屋とて例外ではなく、分家二代政福以来、代々御用金御免の許可を得ていたが反故にされた。
政直は家族運にも恵まれず、二度も子供を残して妻に先立たれている。三度目の妻に木津屋池野権兵衛祐寿の娘のぶを迎えたが、不幸は続き、次男、そして、十二代後継ぎとなるべき長男、政令(まさよし)を28才にして亡うのである。政令の妻ろくは従妹の村井茂兵衛教成の娘、ろくとの間には二男を儲けている。この後、三男を亡い、明治7年、政直は58才でこの世を去るという不幸な人生であった。

十一代は政道(1866〜1952)、欣チャンの祖父である。4才で父、政令を亡い、祖母と母と幼い弟だけが残されるという人生のスタートであった。祖母は木津屋池野氏の出、母は鍵屋村井氏の出で、いずれも当時、盛岡で一、二を争う豪商であったので、両家の支援によるところが多かったが、政道にとって辛い反面もあったと想像される。
政道は当時の商習に従い12才で奉公修業に出された。この間、しばらく母ろくが細々ながらが店を続けた。明治16年(1888)、盛岡に未曾有の大火があり、で店は全焼した。十一屋三度目の火災である。明治19年、21才のとき家業を再興して、洋食料品の販売を始めた。このとき建てたのが現在の十一屋、洋食料品の販売は時代を先取りした才覚であったと思う。
明治35年、天保以来の大飢饉で高利貸しが跋扈し中小業者は苦しんだ。そんな中、明治36年(1903)、同志8名が盛岡信用組合を設立し、互選によって組合長に就任した。現在の盛岡信用金庫の前身である。お店の一部を組合の事務所に充てていたが、大正9年に新事務所に移転、昭和2年の金融挙恐慌の影響も受けることなく3年には鉄筋コンクリートの建物を竣工した。昭和6年、岩手県に銀行恐慌があり、信用組合もピンチであったが、これも乗り切った。以降、順風万帆に発展をとげ、組合長を32年間勤めあげた。また、岩手保護院の運営にも関わり、社会的事業のためにかなりの土地を手放している。久昌寺を建立した二代正吉のDNAが脈々と流れているといえよう。
戦時統制経済時にはお店は配給所となり、最盛期には30人余もいた店員も一人もいなくなり、ほとんど開店休業状態となってしまうこともあった。
昭和20年、息子の政平(五六、欣チャンの父上)に家督を譲った。昭和27年、欣チャン、14才のとき祖父政道は88才で他界している。欣チャンの家の二階に弓道場があり、母上に床が抜けるので危ないから、行かないようにと言われたことがあった。本によると、政道は盛岡の弓道界にも貢献している。
本宮の「盛岡市先人文化記念館」に産業経済・社会の発展に尽くした人々の29人の中に入って胸像レリーフもあるそうですから、訪問したら見てください。

十二代は欣チャンの父、政平(五六、1901〜1990)である。東京在学中、関東大震災に遭い、盛岡に戻り家業を手伝い、大正13年、平六の娘ふきと結婚している。欣チャンの母上は、当時の女性としては長身であったという記憶があり、欣チャンも体格が良かったのだろう。政平は有能な商人で、それまでの食料品缶詰の卸売のほか、洋酒、干菓子、海苔、コーヒー、洋食器など取扱商品の多角化をはかった。店頭の小売と電話一本で市内どこでも配達するというのが売り物であった。PR上手で電柱に「十一屋商店食料品缶詰電話百十一番」の広告看板を取り付けた。このコッピーを知っている人も多いと思う。
政平は平成2年90才で、ふきは4年85才で亡くなっている。母上の死の8年後、平成12年1月22日、十三代五六(欣チャン)、享年62才、法名久昌庵悟真宗叡居士 合掌 (完)
(2回にまとめようと思いましたが、長くなってしまいました)

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