e−たわごと No.136

投稿日 2005/04/24  義経考
寄稿者 八柳修之


腰越状を書いた満福寺 参道に下を江ノ電が通る
 
NHK大河ドラマ「義経」、鎌倉には義経のゆかりのスポット、満福寺というお寺が、江ノ電腰越駅下車数分の所にある。少しは観光客で賑わっているかと思ったが、平日の午前中とあってか、私一人だけであった。やはり、鎌倉は頼朝のお膝元、義経は受け入れられないのか。

元暦2年(1185)3月、壇ノ浦の合戦で平家を滅亡させた義経は、5月、捕えた平宗盛父子を護送し鎌倉に勇んで帰って来た。義経は当然、厚い恩賞を授かるものと思っていたが、不義の聞こえありとして鎌倉に入れず、この満福寺に留め置かれた。このとき頼朝のブレーン大江広元宛てに頼朝への取りなしを依頼した義経の書状が腰越状で、その下書きがこの寺にある。

「私は鎌倉殿の御代官の一人として、勅命により朝敵を滅ぼし、祖先以来の武勇を示し、平家に敗れた父の恨みを晴らしました。恩賞をいただいて当然な筈なのに、讒言(ざんげん*)のため、私の功績は黙殺されてしまいました。私、義経は手柄こそあれ過失などはありませぬ。なのにいわれのないお叱りを受け、悔し涙に暮らしています」・・・この後、若い頃の苦労、義仲・平家追討の苦労を語り、兄弟の情も縁も終りなのかと訴えている。
ある意味で今でも読む人に感銘を与える。しかし、よく読むと、自分のことしか見ていないことに気がつく。
(*讒言 人をおとしいれるため、事実を曲げ、または偽って(目の上の人に)その人を悪く言うこと、また、その言葉。 広辞苑)

この腰越状は、やがて、頼朝の了見の狭さ、非寛容、非人情のゆえに薄命な人生を送ったのだという義経被害者論となり、天下の同情を集め、悲劇のヒーローとなり、「判官びいき」という言葉も生まれた。はては義経生存説、チンギスハーン説まで生まれ出す。このことを頼朝サイドから見てみてみたい。

義経のいう讒言とは、軍監(戦目付)である梶原景時が、壇ノ浦の合戦について頼朝に提出した書状であろう。「判官殿(義経)は君(頼朝)の御代官として、御家人を副え合戦を遂げたのだが、これを一身の功と考え、多数の合力の結果であることを認めない、多数は判官殿のことを思わず、君のために同心して勲功に励んだのである」という一節がある。景時の指摘の限りでは正しいと見るべきであろう。
ここで、景時は義経のことを判官殿と呼んでいるが、頼朝に無断で後白河法皇に取り入り判官になった経緯がある。官職の任命権を持っているのは朝廷のみであり、朝廷にとって官職を授けることは重要な武器であった。(現在でも大臣や大使の認証は天皇が行っているのは、その名残であろう)
頼朝は勝手に任官申請することを禁止し、推挙を鎌倉に一本化していたので、統制を乱す者として、かねてから頭にきていたことでもあった。

頼朝は関東の武士たちによって擁立された地盤の緩い政権であった。関東の武士たちは中央権力の圧力に負けない強力な政権をつくり、自分達の権利を守ることにあった。頼朝への忠誠心でも尊崇の念でもなく、源氏の嫡男を頭に据えることで権威を高める、いわば御神輿として頼朝を担ぎ出したものであった。このように基盤の弱い頼朝であったから、神輿であり続けるためには、頼朝は有力豪族の懐柔と組織化、主従関係の強化に努める必要があった。弟であるからと言って特別扱いすること、勝手な振る舞いを許すことはできなかった。
要するに頼朝を頂点とする政権作りを進めている中で、義経は厄介、危険な存在であったのだ。
義経は合戦の名手、軍隊の統率者としては優れてはいたが、頼朝のような視野の広さ、組織全体、組織を取り巻く環境を見る政治家としては及ばなかった。

 
(参考文献:「義経伝説と日本人」(森村宗冬 平凡社新書、「東国の兵乱ともののふたち」(福田豊彦 吉川弘文館)

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