e−たわごと No.138

投稿日 2005/06/12  みちのくぶらり5人旅(1)
寄稿者 八柳修之

99年6月の白神山地行きの旅から始まった年一回の我々の登山旅行も、昨年の羅臼岳・斜里岳・雌阿寒岳を最後に、今回から路線を変更することとなった。約1名が登山に体力の限界を感じたからでもあった。一週間を目処に車で予定のない旅に出かけようというものだ。車の提供および主たるドライバーは関さん。斉藤一也さんが、10数年前、スペイン旅行で知り合ったという人である。12年の早生れ、一代で会社を一部上場企業にまでした元社長である。そんなエライお人であるが、波長が合い、白神以来の仲間で、なんとドライバーまでしてもらっている。せめて助手席に乗る者は、よもや居眠りなどしてはいけない。
・・・で、肝心の行き先であるが、簡単に北東北と決まった。なんやら、不思議に惹きつけるものがあるらしい。さらに、田口絢子さんが、所有のマンションをご自由にお使いくださいという一言が決定的であった。

5日(日)9時、スタートの大宮駅前パレスホテルに集まった面々は、関、斉藤毅、斉藤一也、丁子、八柳(僅かな生年月日順による)。一路、東北道を北上、第1日の宿泊地白石へと向かう。なぜ白石なのか、とくにないが、メインドライバーの判断でもあった。

お昼少し前、白河ICを下りて白河の関跡を見る。白河の関は「関」ではあるが、江戸時代の関所ではなく、5世紀前半、蝦夷の南下を防ぐために建てられた砦であり、その後、奥州藤原氏の領土の境界であった。
 
「都をば 霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」(能因法師)
昔はここから先の旅は、なにか特別な感慨を抱いたに違いない。芭蕉もこの白河の関を通っているが、ここではなにも詠んでいない。弟子の曽良が「卯の花を かざしに関の 晴れ着かな」と詠んでいる。卯の花はなかったが、ハナショウブが咲いていた。俳人の一也さんは、何か詠んだろうか。詠まなかったら芭蕉並みだ。そういえば最近、HPに投稿がないね。 
 
道路の両側には「手打ちラーメン」の看板のお店が多数あり。どこのお店も結構混んでいて、適当なお店で手打ちする。麺も鶏がらのスープも味よし。
再び東北道に戻り北上、第2ドライバーの丁子さんの運転も調子よし。瞬間140キロを記録。好事魔多し。助手席の小生が居眠りしていた訳でもないが、白石ICの出口を見過ごしてしまう。言い訳すると、案内表示が白石蔵王となっていたことに気が付かなかった。それにドライバーが代わったのか、ナビの女性のやさしい音声案内もなかった。そんなことで、仙台南ICまで行き引き返す。ロスタイム30分以上。なんとか、白石城天守閣登城終了時間5時の15分前にゴールする。
 
白石城は後三年の役で戦功があった刈田氏が築城したのが始り。関が原の戦い後、伊達政宗が所有。青葉城の守りとして伊達家の重臣片倉氏が入城。お城は平成7年に復元されたものである。と言ってしまえばオシマイなのだが、盛岡と関係があるのだ。
戊辰戦争で南部藩は賊軍になって敗戦、減封され白石へ転封された。戦後処理にあたり、南部藩は新政府から70万両の献金を迫られた。これをご用立てしたのが鍵屋であった。南部氏は70万両献金を条件に盛岡復帰を許されたが、結局、借金は踏み倒され、鍵屋は経営していた尾去澤銅山までも新政府に没収されてしまう。うんちくが長くなってしまったのは、鍵屋の事を知ってもらいたいからであった。

今夜のお泊りはインターネットで予約しておいた白石唯一のホテル。目星をつけておいた料亭は「日曜は駄目よ」とのこと。日曜は接待で使わないからね。地元の物を食べさせるようなお店はあまりない。ネット見つけたセカンドベストのお店へ。シメは白石温麺(うーめん)、油を一切使わないそうだ。こしがあってツルツルシコシコ、昆布と鰹節のだし。稲庭うどんの元祖とは店主の話し。

田舎の夜、老人の夜は早く朝は早い。10時就寝。
(つづく)

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