e−たわごと No.144

投稿日 2005/08/05  七夕
寄稿者 八柳修之

田口さん撮影の肴町の様子を拝見しました。昔に比べて随分、賑やかというか派手になりましたね。もっとも、戦後、昭和25年ころ(?)、千円札を飾りとした宝船が登場し話題になり見に行った記憶がある。
七夕といえば、仙台、そして平塚の七夕が全国的に知られているが、盛岡の七夕はいつごろから始まったのでしょうか。仙台はさておき、調べて見ると、平塚の七夕は昭和26年に始まっているから、肴町の七夕の方が古い。
かって、平塚は海軍火薬廠があったことから、昭和20年7月の大空襲で壊滅的打撃を受け全市が焼土と化した。しかし、復興も早く「戦後復興5年計画」も一段落した昭和26年7月に仙台の七夕を範とし、第一回の七夕祭りを開催したのが始りである。

その歴史はともかく、また終戦記念日がやって来る。終戦は我々が二年生のときである。私の場合は親戚縁者に戦死した者もなく、盛岡も特に戦災を受けたわけでもなかったので、戦争体験というような語るべきものは少ない。語り継ぐべきことといえば、戦後の食糧事情のことくらいであろうか。
一年の頃から平塚という地名は聞いて知っていた。隣に住んでいた従兄が盛岡中学4年のとき平塚に勤労動員されたからであった。幸い盛中隊は20年7月の大空襲に遇わなかった。だが、平塚に動員されたときの伯母の心配ようは、毎日のように母と話していたので、子供ながらにも脳裏に焼きついている。
なんでも飛行機のプロペラを造っているという話を聞いて、私は恰好いいなぁとしか思っていなかった。

最近、このプロペラを製造していた会社が、「日本国際航空工業株式会社」という名前であることが、平塚博物館で分かった。この会社はもうないが、昭和12年に設立され、陸軍戦闘機「疾風」四翼自動可変ピッチ・プロペラや大型輸送用グライダーを製造した会社であった。説明によれば大戦末期、出征などによる労働力を補うため、岩手、宮城、山形などから中学生が勤労動員された。そして、平塚市東浜嶽3333にあった日航住宅、通称「花水寮」に分散居住し、そこから工場へ通ったということであった。

 
そんな話をウォーカーで知り合った平塚のHさんと昼食のとき話したら、ご親切にも花水寮のあった場所を調べ、その上最近まで一軒の残されていた花水寮の写真の複写をいただいた。閑人は早速、行って見た。
東浜嶽3333は花水台20―13となり、花水寮があった一帯は新しい住宅地となっていた。動員された生徒達の思い出を偲ぶような縁はなにもない。今もあるものといえば、近くを流れる金目川(花水川とも)という川くらいのものである。中学生達は花水寮と呼ばれた一戸建住宅のなかで、7〜8人、どんな生活をし、どんな話をしていたのであろうか。従兄はもう他界し知るよしもない。75歳になる従妹が一人、伊勢崎に住んでいるだけだ。
写真上は最近まで一軒あったという花水寮、下は同じ場所の写真。こんな写真、本人以外関心はないのだが、Hさんに敬意を表して載せます。
(8・5 八柳)

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