e−たわごと No.145

投稿日 2005/08/15  戦争記録の一端
寄稿者 八柳修之

今年は戦後60年、TVではいろいろな特番が組まれた。7歳のとき終戦であった我々もすでに67歳、戦争の語り部は少なくなり風化が進んでいく。
そんななか、映像や書物だけが戦争の悲惨さを伝える。それでも、あまりぴんとこないものだが、知人が映像の中に登場するといえば、話は別である。
8月8日、9日の二夜にわたりNHK BS1で「祖国を奪われた人々〜中南米日系人強制連行の記録〜」という特番があった。その内容は次のとおりである。

 
 戦時中、ペルーを中心に南米各国(アルゼンチンを除く)から2,264名の日系人が米国へ強行連行された。逮捕された人達は何らの反米活動もしておらず、逮捕理由は何もありません。ペルーの場合は、ルーズベルト米大統領とペルー大統領との密約で日系人有力者が逮捕、米国に連行された。突然逮捕された上、米国ではパスポートと米国在住のビザがないということで不法入国という全く理不尽な理由で強制収容される。そのうちの700名は、捕虜になった米軍人との交換要員に使われた。その一部は日本へ帰れず、スペイン語ができるという理由でマニラで下ろされた。
 戦争が終わっても、大部分の人はペルーに帰ることは出来なかった。ペルーが受け入れを拒否、日本へ送還された。ペルーに残っていた家族とは別れ別れ、帰国した日本でも温かく迎え入れられず、苦労の連続だった。
 日系アメリカ人が強制収用は不当であったと訴えて立ち上がり、レーガン大統領が謝罪し、一人あたり2万ドルの補償がされた。しかし中南米日系人には何の措置もとられなかった。
96年、中南米日系人が日系アメリカ人と同様の補償を求めて、訴訟を起こした。最終的にクリントン大統領が謝罪し5,000ドルの補償されることで和解した。

これは戦争が人の運命を揺るがせ、家族を引き裂き、悲しい思いを与えたほんの一例にしかすぎない。忘れ去られそうな戦争の悲劇の一端を伝える好番組であった。

実は私の20年来の知人Oさん。米国に抑留され、そして日系中南米人の補償問題に尽力された。それがこの番組を見たわけでもあった。
98年、朝日新聞「ひと」というコラムに「O.Mさん 米国に抑留された日系中南米人を捜す」という記事が掲載された。
 
「8月10日の締め切りまでは走り回ります」 第二次世界大戦中の被害者を捜すため、東京、関西、九州と説明に歩いている。大汗をふきふき、ネクタイが裏返っても気にしない。「締め切り」とは、米国政府が抑留体験者に示した一人5千ドル(約70万円)の補償金を受けるか、拒否するか、意思表示をする期限のこと。今年6月、米国で被害者と政府が和解協定を結んだ知らせを聞き、日本の窓口役を買って出た。行動を起こさなければ権利を失う。独力で約350人を見つけ出したが、まだまだいると予想する。

「私も受け取るつもり。ひどいぞ、と思い続けてきた被害者なのだから」
ペルー生まれ。福岡出身の両親が1920年前後に移住し、時計店を営んでいた。貧しい日本を脱して裕福になりたかったのだろうという。
そこそこの暮らしが、戦争で一変する。開戦翌年の42年暮れに父が、半年遅れて母と兄弟四人全員が、米国へ連行された。日本軍との「捕虜交換要員」だった。抑留者が「ホタル小屋」と呼ぶ仮設住宅暮らしが続くが、戦後も米国から不法入国者扱いされ、ペルーは再入国を拒否。一家で日本に帰った。
 ゼロからの再出発。自分は一橋大から住友商事へ、順調な道を歩むことができたが、両親は早死にしたのは戦後の苦労が原因、と今も悔しい。

 定年後、何かやらなきゃと思った時、頭に浮かんだのが抑留問題だった。そのころ、米国が日系米国人抑留者への補償を決めたが、元中南米人は対象から外された。「静かなふつうの人のはずが」と妻が驚くライフワークが始まった。知人を頼り手紙を送る。新聞に「尋ね人」を出す。体験談を記録し、遺品の日記を収集する。
「おれがやらなきゃだれもやらんだろって・・・・ね」身を縮め、はにかんだ。商社ではアジア、中近東専門で「最後にやっと南米に赴任」
  川崎市在住。

そのOさんもいま76歳、体験談を収集、記録するすばらしいライフワークは続いている。
(8・15 八柳)

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