e−たわごと No.148

投稿日 2005/08/28  調査リポート 石油の里
寄稿者 八柳修之

原油先物価格はついに1バレル70ドルを超えた。資源は有限、原子力アレルギー、中国や途上国の需要の増大によって、価格はとどまるところを知らない。
イラク戦争には大国の石油を巡る思惑がある。
わが国の石油はほぼ100%、輸入に依存している。ほぼというのは、未だわずかながら生産しているからである。戦前、わが国石油需要の約75%は国内生産で賄っていた。中学時代の社会の教科書にも新潟や秋田の油田名が載っており、わが国最大の油田は八橋油田(やばせ)であったことを記憶している人も多いと思う。(以下、全く私の世界ですので関心のある方だけ読んでください)

私の苗字は珍しい部類に入るので、リタイア後、八柳姓のルーツを調べていることは、すでに述べた。(eたわごと102)。調査の過程で色々な副産物があった。苗字のルーツを探ることは地方史を紐解くことでもあった。
苗字の発祥地、八柳の荘、八柳村こそが、かって八橋油田があった現在の秋田市外旭川地区なのである。銀行退職後、石油開発会社に身をおいたのも少なからぬ縁だと思っている。

外旭川地区は古くから拓けた所で、平安時代、931年、源 順(みなもとのしたごう)によって書かれた「和名類聚抄」郷里部に見える出羽の郡郷名によれば、高泉郷と呼ばれていた。
石油は古くから臭水(くそうず)、江戸時代には石脳油などともいわれていた。
地名は地形、地勢を表したものが多い。今でもこの辺りは古くから石油の存在を思わせる地名が多い。草生津川(くそうずがわ)という幅、5〜6mあまりの川が流れ、帝国石油の事務所がある辺りを油田(あぶらた)といい、また近くには濁川(にごりがわ)という地名や、八橋から直線にして10キロほどの所には黒川油田、さらにその隣の豊川油田には草生土(くそうど)という地名がある。事実、豊川油田の槻木(つきのき)遺跡から出土した縄文式土器にアスファルトの付着が見つけられたなど、この付近からは瀝青炭が大量に産出されたという記録があるという。そしてこのアスファルトは遠く、青森の三内丸山遺跡で発掘された土器の修理にも使われたのではないかとされている。

では、いつの時代から、くそうず、にごりがわ、と呼んで来たのであろうか。
残念ながら、庶民の生活の歴史記録となると、江戸時代の1600年代から始まる。
秋田の石油に関する記事は「梅津政景日記」中、寛永8年(1631)10月10日の条に「くさうつ(草生津)のあふら」とあるのが始めとされる。八橋(当時は矢橋といった)が、草生津川の流域に臭水、すなわち石油の露頭があったことを示している。

また、1800年代、有名な紀行家菅江真澄は、秋田領内の庶民の生活、習俗を記録しているが、その著「勝地臨毫(しょちりんごう)」のなかに、出羽国秋田郡八柳の荘の風景絵とその説明がある。
「八柳の荘、土油河(くそうづ)のかたわらに、其古河あり。御台屋敷といふ処あり。今は土とり場となりぬ。八柳殿の御休息とてなりどころありしといへり。・・・」(秋田郡一、三)
「八柳の荘、臭水川の蓬田橋・・・石脳川(くそうずかわ)の水源は飯岡の湖をもととし、笹岡の沼水もおちて矢橋に流れ、傘岩のあたりより海に入る」(秋田郡一、四)
土油河、臭水川、石脳川など用語が不統一であるが、八柳の荘をくそうず川が流れていたことは明らかである。

菅江真澄と同時代の随筆家、人見蕉雨(しょうう)は、その著「黒甜瑳語(こくてんさご)」(黒甜とはうたたね、瑳語とは細かい言葉の意)の中で「今矢橋草水ノ中ニ油アリ、往来ノモノ杖ニサグリ、石ヲシズムレバ、水面ニ碧雲ノ状浮ブ、寛政十二年(1800)ノ夏、果シテコノ辺リ油ワキ、ツボ見出セシモノアリテ、府ニシテ産業トナス」とあり、すでに1800年頃、つぼといわれる水溜りに浮いている油を、箒ですくいとる原始的な方法で採取され利用されていたことが分かる。

秋田で石油開発を最初に手がけたのは秋田上通町の油屋千蒲善五郎である。千蒲家は天保年代から秋田藩の油御用商人であった。善五郎は臭水に注目、慶応二年(1866)八橋戌川原でつぼを発見し石油の採取に成功した。
明治3年、八橋帰命寺境内に蒸留釜で製油し灯油の製造を始め、明治6年には、当時東京に出来た長野石炭会社に参加、濁川、黒川で開掘した。その後、地元資本を糾合して八橋、泉、濁川、黒川、豊川、道川の油田を開発したが、明治41年(1908)以降、採掘、販売の権利を日本石油に譲渡した。
昭和10年、草生川と雄物川の合流地点で膨大なガスと原油の噴出があり、一躍八橋油田の名は全国的に有名になった。

戦後、20年代まで秋田市街と土崎港(旧秋田港)との間、田圃の中を電車が通っていた。途中、八柳という駅もあった。車窓から石油の櫓が乱立する風景、ポンプのキィー、キィーする音を聞いたものだ。
油井がまだあるかと思って秋田の友人と車で探した。八柳二区という地域で2台のポンプ井を見つけることができた。どっこい稼動していたのであった。
伯父が八橋油田の全景を撮影したと思われる勝平山に登ったが、展望台はなくうっそうとした樹木で全く見通しが利かなかった。

ところで、ルーツ探しであるが、外旭川八柳に八柳平治郎の居館跡が現在も残っており、同地に八柳氏が大永元年(1521)若宮八幡宮を建立したという記録までたどり着くことができた。さらに古くは、八柳氏は後三年の役(1083)で源義家に属した三浦与四郎(神奈川県三浦市)の子孫であると伝えられる、というところまでは分かったが、1083年から1521年までの440年は空白を埋めることは出来ず頓挫している。完(8・28)
 

菅江真澄が描いた八柳の荘、草生津川が流れているのが分かる。
 

昭和12〜13年頃、私の伯父、八柳岩治郎が撮影した雄物川河口付近の八橋油田の風景。
当時は垂直堀でしか採油できなかったので、このように多くの採掘井を立てねばならなかった。
写真を継ぎはぎしてパノラマ写真にしている。
この写真は当時の八橋油田の隆盛を伝えるものとして貴重な記録となっている。
 

外旭川八柳地区で見つけたポンプ式採油井
 

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