e−たわごと No.168

投稿日 2006/02/20  商売の浮き沈み
寄稿者 八柳修之

 デジタルカメラの出現によって、カメラ・フイルム業界が大きく変革したことについて、田口さんとメールのやりとりをしました。商売は常に時代の変化を読みとり先取りし、しかるべく対応したお店のみが生き残る。昔から続いきたお店は、それなりの自己改革力があってのことである。
以下、私的なことで恐縮だが、三代にして終わった私の家の本家「八柳写真館」の盛衰である。

 私の先祖、八柳兵次郎は長らく秋田氏に仕えていたが、関が原の役(1600)後のお国替えで秋田氏は常陸に移封、兵次郎は本荘藩六郷氏に仕える下級武士となり秋田から本荘に移り住んだ。
 その後、明治維新により禄を失った八柳岩治郎は、東京で遊興中、写真に興味をもち嵩じて明治6年(1873)本荘で写真屋を開業した。言い伝えでは、岩治郎は写真術を独学で学んだとされて来たが、最近の調べでは元矢島藩家老、のち写真師となった小助川直記から習ったことが分かった。

 秋田の写真の歴史は、幕末、長崎帰りの秋田藩士・後藤敬吉によってもたらされた湿板ガラス撮りの写真である。第三号が明治3年、秋田市で写場を構えた田口構三なる人物である。(田口絢子さんのご先祖も秋田出身であるというが、関係は不明)。
 明治27年(1894)、岩治郎は秋田市へ移り、現在の北都銀行本店東隣で八柳写真館を開業した。写真館は開業当時、小規模であったが秋田県庁のすぐ脇という地の利と、夫婦の商売上手で力をつけ、明治30年(1897)、同じ場所に豪壮な洋風二階建ての新館を落成した。秋田市の写真館としては、一眼堂と並んで繁盛し、館主岩治郎は業界のリーダー役を長く務めた。
(「秋田写真館物語」渡部誠一郎著)
 
 
 商売が繁盛したのは、県庁を初め諸官庁、小中学校などの出入り業者となったこと、また秋田には連隊があり出征時、兵士は家族とともに写真を撮る習慣があったこと、綺麗に撮ってくれるという見合い写真で評判をとったことなどであった。(当時は乾板ガラスであったので修正技術がものを言った)
 家業は二代目茂三郎(養子、私の祖父)のとき一層繁盛した。昭和14年茂三郎が亡くなり、三代目岩治郎(私の伯父)が継いだ。三代目はあまり商売熱心ではなかったが、まだよき時代であったので、祖母スギが7人の使用人と3人の女中を仕切り写真館を続けた。

 しかし、戦後、世の中が安定してきた昭和20年代の後半から、ちょっとお金を出せばカメラを買えるような時代になると、写真屋で写真を撮るという機会は少なくなっていった。写真の大衆化に対応し、カメラや機材、DPEの仕事に転じる機会があったのだが、祖母の死や息子を医者にしたいということで熱が入らず、結局、先細りとなり昭和31年に廃業した。
まさに商売は三代続くのは難しいという言葉どおりとなったしまった。
結局、息子も医者になることはできなかった。しかし、仮にDPEをやったとしても、商売の才覚があったかは分からない。
 三代目岩治郎は遊び人で商売熱心ではなかったが、大正昭和の街や風俗を撮影した映写フイルムが1962年に多数発見され、NHK仙台局から「懐かしの秋田グラフティ」として放映されたことがある。

 下の写真は早稲田大学写真館データベースで見つけたもの。1910(明治43)年代、八柳写真館製とある。撮影年次からすると、初代岩治郎が撮影したものと思われる。工場内の労働者というタイトル、ボーリングしているところのようにも見えるが分からない。初代岩治郎は社会派でもあったのかなぁ。
 
 
(06・2・20)

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