e−たわごと No.174

投稿日 2006/03/20  堀合先生(1)
寄稿者 竹生健二

以下は日記からの抜粋である。1957年7月25日 木曜日の夜9時に突然 堀合先生から電報が届いた。発信コ七、五二 (註:午後7時52分)。受信コ八、二○。電文「二六ヒ八シ゛マテ゛ニコイシカワ三六八一エテ゛ンワ ホリアイ」すぐ小石川局3681に掛けると、今回 教育研修会のため上京されており、明日12時から13時のお昼休みに浅草橋の柳北小学校で会いたいと。

翌26日は学校へ行く用事があったので、雨の中を京王線の駒場から一駅先の池の上まで行き、佐藤君 (当時そこに下宿していた) を誘おうと思ったが、予備校に出ている由。一人で浅草橋まで行くと、約束の12時を一寸過ぎてしまい、研修会に集まって居られた先生方はもう昼食をとるために会場にはおられず、学校にお願いして構内放送で呼び出してもらった。転校して以来、もう5年もお会いしていなかった。先生とは20分くらいしか話しが出来ず、夕方また会う約束をしてひとまずお別れした。
私は一旦池の上まで戻り佐藤君を訪ねると、今度は会うことが出来た。一緒に浅草橋まで行き、研修会の終了を待って16時過ぎに先生とお会いし、タクシーで本郷の東大病院前まで行き、大学構内を散歩してから正門の前にある喫茶店に入り、しばらく三人で懇談した。何が話題になったかは、全く日記には記載されていない。都電で須田町まで行き、タクシーに乗り換えて水道橋にある先生の座談会会場へ。そこで先生とは日曜日14時に上野での再会を約束してお別れし、佐藤君とは古本屋を見て周り、飯田橋駅で別れた。

27日朝 松田君 (当時 世田谷の砧に住んでいた) 宛てに速達で、明日出来たら14時に上野に来るように連絡。翌28日 日曜日は快晴になった。アルバイトで家庭教師をやっていたので、午前中は房総西線の八幡宿へ。終ってから総武線で千葉から秋葉原経由上野へ。30分も約束の時間から遅れてしまったが、その間佐藤君が先生のお相手をしてくれ、さらに昨日の速達を見て松田君も来てくれていた。快晴の空の下、西郷さんの銅像の前で記念写真を撮影。先生の体格は西郷さんとよく似ておられる。そのあと皆一緒に電車で西千葉の私の家へ。(註:当時の我が家は千葉県営の五階建てアパートのうちの一戸で家賃こそ割安だったが、二畳の台所・押入れ付き四畳半の両親の寝室・六畳の子供の寝室・二畳の私の勉強部屋が全てであり、あとの兄弟四人には個室など無く、風呂は共同浴場だった)。
この狭い我が家で撮った写真がある。私が立った姿勢で国語の教科書を読む。教科書を両手で持たず、左手で持つやり方は先生から教わった。松田君には挙手を、佐藤君には居眠りの仕草をしてもらった。先生はといえば右手に持った指し棒で、組んだ左足の裏をたたく癖をやっていただいた。黒板の「ひらがな」も先生に書いていただいた。夜、あまり遅くならない時間に皆と一緒に登り電車に乗り、船橋までお見送りする。先生は今晩は東京でもう一泊され、明日盛岡へ帰られると。私は明日から三日間、高等学校の仲間と房総へ海水浴に行く。

(つづく)
 

上野公園にて
 

西千葉の我が家にて
 

堀合先生
 

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