e−たわごと No.179

投稿日 2006/03/25  野球の原点
寄稿者 八柳修之

日本の初優勝に終わったワールド・ベースボール・クラシック(WBC)は、近頃になく興奮した。誤審騒ぎなど水をさす出来事もあったが、世界一を競うに相応しい好プレイ、好試合が多かった。そして4番のスター選手を集めたドリームチーム=世界ナンバーワンならず。大きな歯車だけではなく、小さな歯車がかみ合ってこそ機能するチームプレイ、スモールベースボールが、最後に栄冠をつかんだのであった。近年、大砲ばかり集めて野球を面白くなくしている某球団には良い薬となったであろうし、もはやアメリカ一国がワールドシリーズ・チャンピオンを名乗るのはおこがましい。

23日からは選抜高校野球が始っているが、高校野球が人気を集めるのは、真剣なプレイにあるからだろう。もっとも近年は、西では出場できない選手が東に移っただけで、野球学校には素直に声援を送れない市民も多かろう。
伝統高と言われる盛岡一高、盛岡商高、岩手高校の甲子園出場は夢のまた夢である。しかし盛岡一高の野球の歴史は古い。野球の創成期の明治38年、日本で始めてアメリカに遠征した早稲田に盛岡中出身者が2名入っているのである。

以前に書いたことがあるが、女房の姉の亭主は、かつて早大のスラッガーと呼ばれた強打者であった。一昨年、稲門倶楽部会長を辞した後、自伝を執筆中で、私は資料収集を手伝っているが、そのとき得た知識である。余談ながらお陰で末吉、廣岡、にも会うことができた。(以下は愛校者の袰岩さんは、既にご存知のことであるが書きます)
日本に初めてベースボールを紹介したのは、明治6年(1873)、アメリカ人英語教師H.ウイルソン、ベースボールを野球と訳したのは正岡子規であるといわれる。野球はもっぱら一高、帝大、高等師範を中心に行われていたが、明治34年に早大野球部が創設され、36年には記念すべき第1回早慶戦が行われている。明治38年、日露戦争の最中、安部磯雄部長を団長とする早大野球部13名がアメリカに遠征、大学チームと対戦し26戦して7勝19敗の成績であった。この13名のメンバーの中に盛岡中学出身の獅子内謹一郎(右翼手)、小原益遠(中堅手)の2名が入っている。
獅子内謹一郎は士族の出、のち岩手野球の父と呼ばれ、昭和30年以降、都市対抗岩手大会の最高殊勲選手には「獅子内賞」が贈られている。小原益遠のその後の消息については分からない。
獅子内は岩手野球の父と呼ばれているが、獅子内より先、明治34年、早大野球部創設と同時に入部した弓館芳夫という人がいる。弓館は明治37年春に行われた第2回早慶戦の記念集合写真に写っているが、鳥打帽に着物姿なのでマネージャーだったかもしれない。

稲門倶楽部物故者名簿(182名)によると、盛岡中学出身の野球部員には、野々村納(明治41年入学)、久慈次郎(大正5年入学、昭和6年、アメリカ遠征全日本の捕手、沢村栄治とバッテリーを組む。昭和14年試合中ボールを頭に受け不帰となる伝説の名捕手。その敢闘を称し都市対抗野球の敢闘者には久慈賞が贈られるようになった)、久保田禎(大正7年入学)、藤田重次郎(大正8年入学)、村井清八(大正13年入学)、阿部理八(昭和5年入学)が見られる。
(注:入学とあるのは、当時は在籍制限がなく、新人の入部がないため留年させられたり、中途退学者も多かったという)

物故者の出身校をみると、ほとんどが中学出身者(商業は2校のみ)で現在の進学校である。当時、盛岡中学の野球のレベルが高かったいうより、野球はお金もかかり、限られた人のスポーツで野球を職業とすることなど考えもしなかったであろう。ましてや大学に進学できる人は少なかった。
野球が好きで母校の名誉のために戦った純粋な選手達、そのプレイはWBCで観たようなプレイであったに違いない。
最後に野球留学することなく島に留まってプレイする石垣島の八重山高校の健闘を祈りたい。
(3・25 八柳)
 
明治36年、第1回早慶戦の両軍メンバー 後列左から2番目が獅子内謹一郎
   小原益遠と弓館芳夫は第2回早慶戦のメンバーに見られる。
 

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