e−たわごと No.180

投稿日 2006/03/30  転校
寄稿者 竹生健二

父は岩手県庁の畜産課勤務だったが1957年には千葉県庁に転勤することになり、それに伴い家族も引っ越すことになった。兄はすでに大学受験で浪人中で、一足先に東京で下宿していた。姉は短大の二年生だったので、卒業まで盛岡に残った。
幸い私の引越しは、この年の夏の北海道への修学旅行に皆と一緒に参加したあとだった。修学旅行から帰った夏休み中の7月26日に、三年B組で私の送別会を開いてくれた。皆で写真撮影をしたあと、テニス部員との写真も撮った。何と南部淑子さんも一緒に写っているではないか。南部さんは私よりも前に東京へ移り、その後学習院大学に入学したと記憶していたのだが。
8月の千葉行きの日も決まったある日、堀合先生にお別れをするために日赤病院を訪れた。何の病気で入院されていたのか忘れてしまったが、もうすっかり元気になられて、病院の庭に出られて一緒に写真におさまってくださった。

8月のさなかに千葉に越してきて、半月ほどのんびりした。さて、9月からの二学期には千葉大学附属中学校へ転入できるように、父が申し込み手続きに行ってくれたが、何せここは受験の世界。今から引き受けても進学が保証出来ないと言われて断念。市立では一番県立高校への進学率の高い葛城中学校へ入れてもらった。勿論住んでいる区域の学校へしか行けないのだが、葛城中学校の区域に寄留して通わせてもらった。
先ず9月1日の始業式で驚いたのは、校庭で (プールは勿論、講堂などは市立の学校にはなかった) 始業式を行っている最中に何人かの生徒がふらふらと倒れてしまったことだ。栄養失調と炎天下長時間立たされたことが原因だった。次ぎに驚いたのは、補習授業だった。始業式のその日からもう放課後の授業が始まり、夕方まで続いた。今では生徒が塾へお金を出して通うのが当たり前だが、当時はたとえ市立でも学校の進学率を挙げるのは先生の任務と考えられていたから、先生方は無報酬で補習の授業をやっておられた。盛岡にいたときには、放課後は暗くなるまでテニスばかりやっていたので、暗くなるまで勉強に追われるのが妙に寂しくて、人の居ないところで「母さーん」と胸の内で叫んだのを今でも思い出す。小学校入学から大学を卒業し、会社に入って定年退職するまでのうちで、環境がこんなに変ったのは一生に一度、これが始めてだった。
 
 

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