e−たわごと No.182

投稿日 2006/03/30  佐藤信生君
寄稿者 竹生健二

小学校の低学年のころから佐藤君とは住んでいた場所が近いせいもあって、親友関係にあった。彼は加賀野文化小路、今の住居表示でいうと加賀野3丁目と9丁目との境あたり、文化橋の東詰から中津川の左岸を上流に向かって歩くと、左に製乳工場 (裏が中津川) があり、さらに進むとしばらくして川渕に出る。その手前の、道路に面した家に一家で住んでおられた。

ご一家が熱心なプロテスタントの信者で、私も彼の勧めで内丸教会の日曜学校に通わせてもらった。毎週日曜日朝に彼の家へ行き、そこから二人で歩いて内丸まで行った。通いはじめて最初のクリスマスには、ベツレヘムのキリスト降臨の劇で預言者の役をやらされたのを覚えている。岩手大学の男の学生さんが日曜学校の先生をしておられたが、イブの晩は八幡様近くにあったその先生の狭い、二階の下宿部屋に佐藤君と二人で無理を言って泊めさせてもらい、夜が更けてから起こしてもらいクリスマスキャロルに参加し、他の数人の聖歌隊と一緒に凍てつく市街を讃美歌を歌って歩いた。彼の熱心さのおかげで、私は転校する中学三年生の夏まで日曜学校に通い、その間聖書に出てくる話をたくさん聴く機会を持つことができた。結局クリスチャンにはならなかったけれど、西洋文明の基礎といわれる聖書のあらまし、プロテスタントの教えの片隅を勉強できた。

中学校では庭球部で一緒だった。新校舎が出来る前で、小学校の講堂の脇に庭球場があったが未整備のためコートの状態が悪く、一年生の私たちが豆腐屋さんから苦汁 (ニガリ) を貰ってきてコートに撒いて、そのあと大きな石のローラーを二人掛かりで掛けた。市内の中学校の対校試合がよく岩手公園で開催され、参加した。私は斉藤隆助君とペアで、佐藤君は多分出口宏君と一緒だったと記憶している。私が転校する直前の1952年春の試合では、どういうわけかいつも弱い「わが附属チーム」が勝ち残り、準々決勝で佐藤組対竹生組という附属同士の対戦になった。今思うと佐藤君は私の転校の餞別に、わざとミスを重ねてくれたようだ。竹生組が準決勝に進んだが敢え無く敗退した。その後佐藤君からは、彼の卒業後に附属中学校がこの大会で優勝したとの知らせを一度貰った事がある。

中学卒業後、何の機会だったか佐藤君が1954年10月に上京した際都心で会い、皇居前や高島屋の屋上で過ごし、その日の夜は西千葉の我が家へ泊まってくれたことがある。1956年には彼も私同様大学入学試験に失敗し浪人の身になっていたが、一足先に学習院大学に合格が決まった松田君が我々を慰めてくれるために5月27日に中野のおばさんの家に招待してくれた。そのときは同じく浪人中だった福田君も来てくれた。1957年4月17日にも西千葉の我が家まで来てくれた。その後1957年7月28日には堀合先生や松田君と一緒に千葉の我が家まで来てくれたことは既に書いた。彼は金沢大学の医学部に進んだと記憶している。
 

庭球部
 

佐藤君と高島屋屋上
 

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