e−たわごと No.183

投稿日 2006/04/05  消えた学校
寄稿者 八柳修之

袰岩さん撮影の不来方橋の写真が発端となり、不来方中学はどこにあったかに発展し、附六会をも巻き込んでの展開となりました。お陰でお互いの交流も深まりよかったですね。
田口さんが写した不来方中学跡の写真を見ると、随分、狭い敷地に学校があったものだと思いました。不来方中は昭和22年4月から27年3月までの5年間に400人の卒業生を送り出し、河南中学に引継がれたとのこと。一学年1〜2クラス、附属中学の創成期と同じ規模の中学であったものと想像されます。

教育の機会均等、普通教育の普及と男女差別の撤廃、学制の単純化を掲げた新学制、六・三制教育が昭和は22年4月にスタート。同時に新制中学1年生が誕生した。戦後、新教育を実施するための施設と教員が不足し、青空教室や二部制授業が行われるなど全国的に混乱の時代であった。
附属の場合、すでに高等科(2年制)があり、なんとか施設を遣り繰りして、スタートしたものと思われる。ちなみに附中1回生(24年3月卒業)は高等科からの生徒、1クラス、担任は山館先生であった。
波多野さんによると、この時期、不来方、加賀野、住吉、水明などの中学があり、のち廃校、統合されていったという。その所在地はどこか? 次なる疑問も出てくる。

その疑問を解く手がかりが、HPを見た谷村さんから提供があった。
古い盛岡市主要部地図(作成年月不明)を持っていたのだった。しかし、この地図を見ても、不来方中、水明中の所在地については分からない。多くの小学校には中学が併設されていたが、城南小、杜陵小、大慈寺小にはいない。
住吉中は盛岡商と同一敷地に記載があるので、盛岡商の校舎を一部借用していたか、あるいは敷地内に仮校舎があったのかもしれない。同じような目でみると、下小路の市立女子高と下小路中学にも同じことが言える。
加賀野中は岩手保養院の向かいに独立の校舎があったことが確認される。のちに加賀野中の校舎に市立女子高が移転して来たことを覚えているが、戦後の混乱期に加賀野中学の校舎を新築したとは思えない。
杜陵小の生徒は戦前から盛岡高等小学校であった下ノ橋中へ、大慈寺小の生徒は施設に余力がないため、川を越えて不来方中へ。ちゃんとした校舎ではなかったかもしれない。以上、勝手な推論を書きました。

公立の小中学校の盛衰は、人口動態と居住地域の移り変わりを反映している。
以前住んでいた横浜の新興住宅地の小学校、子供が通っていた頃は1学年3クラスあったが、いまでは廃校、統合され跡地には老人施設ができるという。
附属小学校は明治10年(1887)、盛岡師範学校附属として設立されている。
爾来120年になる。卒業50周年記念で附属を訪れたとき、教頭先生が青森との教育学部統合の話があり、存続の危機にあるようなお話をされていたが、その後、どうなったであろうか。国立だからと言って安閑としていられない時代である。卒業生としては気になるところである。

(盛岡の公教育史については、盛岡市 Wikipedia で検索して見てください。
主として高校の設立、統廃合など年表式で書かれています。火事で焼けた女子師範跡に消防学校が設立されているなど興味深いものがあります)

追記:
河南中学のすぐ近くに木津屋(池野友子さんの実家)の貸家があり、土屋浩三君、英語教師、トッチャンこと村井佐助先生も住んでいた。
山館先生が河南中学の校長をされていたのは、昭和45年前後ではなかったかと思う。先生をお訪ねしたとき岩手国体の話をされていたからである。東京に出てから先生にお会いした最初で最後だった。(山館先生が校長されていた時期については山中さんが詳しいであろう)
(4・5 八柳)
 

古い盛岡市主要部地図(作成年月不明)
 

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