e−たわごと No.217

投稿日 2006/05/01  こどものころの野球
寄稿者 八柳修之
 
札幌 石屋製菓コレクション
 
竹生さんの連作を読むにつけ、私の記憶も甦って来た。
小学生の頃、テニスボールを使った野球が盛んであった。人数が少ないときは三角ベースをやった。ピッチャーと一塁、三塁、外野が2人、キャッチャーは相手チームがやればチーム5人でできた。
プロ野球は川上、青田の時代で、ひいきチームは巨人と阪神とに二分していた。
小6のとき、放課後、軟式ボールによる堀合学級と吉田学級の試合をやったことがあった。グローブは戦前からの古いものか、ボールを受けるところだけ皮のズック製であった。館沢さんは、当時としては珍しいファーストミットを持っていて、キャッチャーをしていたことを覚えている。試合は深沢忠国さんをピッチャーとする吉田学級の圧勝に終わった。この頃、深沢さんとの間にはハンディがあり過ぎた。

テニスボールを使った野球には苦い思い出がある。中3のときであったが、出来もしないのに三塁にヘッドスライディングをして右手手首を骨折したのである。当時、骨折すると、サンコさんこと瀬川正三郎さんに骨接ぎをしてもらうのが常であった。山中さんが宇部先生に伝え、先生と一緒について来てくれた。
後日、オヤジがサンコさんにお礼に行ったが、生徒、学生からは決して治療費を貰わないという人であることをオヤジから聞いた。
この骨折で8月の初めに予定していた岩手山登山に参加することができなかった。この事は、竹生さんが編集長となって作成していた「創造」という学級新聞に掲載されている。(この新聞については、滅多に誉める事がなかった小田忠が誉めた。この後、2級下の下級生が「わだち」という校内新聞を発行している)
骨折は夏休み明けには完治すると言われたが、上手く繋がらず、やり直しとなり医大でマッサージなどを続け完治までさらに一か月余かかった。当時、毎月、総合テストがあったが、字を書くことができず、別途、口頭によるテストを受けた。

ソフトボールは中2の体育のとき始めてやった。ボールは数個しかなく、昼休み時間にはなかなか貸して貰えなかった。
このソフトボールを初めて見たのは戦後間もない頃であった。当時、教育会館が進駐軍本部として接収され、その隣の空き地で、米軍兵士がよくソフトボールに興じている姿を金網越しに見たものである。この空き地は、時間的前後の記憶は曖昧であるが、闇市、桜山さんのお祭のときなどサーカース小屋が建った。
(5・1 八柳)

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