e−たわごと No.248

投稿日 2006/06/06  ニイタカヤマノボレ (1/3)
寄稿者 斎藤 毅

トラトラトラのような物騒な話ではありません。平和な時代の友好国における遊山です。

 私は国民学校2年まで台湾で育った。8月15日は、疎開先の蕃社(こういう言葉が有ったのです)・烏来で迎え、やがて台北に戻ったが、其処での占領軍は中国国民党の軍隊だった。「強ク正シイ兵隊サンノ日本軍」に勝った軍隊にしてはダラシナクミスボラシイ集団でまことに不思議であった。半年後東京銀座の交差点で交通整理をしていたGIを格好良いと思ったのも不思議な感覚なのだが。
 学校では、ご真影が外されて孫文の肖像が掲げられ、日の丸の旗が降ろされて晴天白日旗が揚げられ、中華民国国歌(三民主義の歌)を教えられた。この歌は私が最初に覚えた外国の原語の歌である。皆と同様私も結構軍国少年であったからとても残念だったが、大人が負けたのだから仕方がない。何年か後に、戦後の世相を描いた小説の中の「オトコが負けたからオンナがこういう目に会うんじゃないか」というパンパン(こんな言葉もありましたヨネ)の科白を尤もだと思ったものである。
 善悪の判断基準も無くなったから、試しに、それまで前を通るときも立ち止まって最敬礼をしていた建功神社の鳥居の傍らで立小便をしてみたが(コンナ子供ニ誰ガシタ!)バチも当らなかった。神様も戦争に負けて怒る気力も無くしていたのかも知れない。そして、私が後年、権威・権力に対して冷ややかな性格になってしまった原点はこの辺にあるのかも知れない。
 昭和21年4月、台湾を去ることになったが、このとき、いずれ帰ってきて新高山のテッペンで日の丸の旗を振りバンザイを叫んでやろう、と決めた。それから55年後、新高山登頂の運びとなった(計画を3回延期したことは前回書いたとおりである)。

 2001年10月10日(晴)。羽田をCI-107便で発って台湾へ。桃園に在る国際空港からバスで南下。北回帰線公園に立ち寄り(夏至の日の正午、太陽は此処の真上に来るから影が出来ない)夕食は嘉義市のレストランで。
 私は出生地は異なるが生命の発生は此の地と推測されるので(当時父が此処の助役をしていた)懐かしさを感ずる所であり、日本時代の役所の建造物保存運動があったときには、私も外国人ながら署名者として名を連ねた。
 夕食後、更にバスで阿里山へ。阿里山青年活動中心に宿泊。日本では米語のcenter をセンターとすることが多いが漢字では成る程中心だと妙なところに感心した。
 

 

 
 

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