e−たわごと No.257

投稿日 2006/06/02  鑪山(たたらやま)から
寄稿者 八柳修之

先の写真(たわごとNo.249)で左側にあるのが鑪山(たたらやま)、390m である。岩山(340m)より高く、かつ勾配が急であるからあまり登ったことはなかったが、途中に石切場があった。この辺り一帯はごま石(花崗岩)が多い。
この山は江戸時代の後半に選定された盛岡八景の一つ、「鑪山の秋月」、「安庭の晴嵐」で知られるとおり、晴れた日には山に気がたちこめ、眺めた方がよい山である。南部のお殿様はお城から眺めたであろうか。明治42年5月、宮沢賢治が遠足で登ったことがあるという。(文化地層研究会発行「啄木・賢治青春の記憶探求地図」)だからなんなのさ、なのだが・・・

私はこの鑪山、名前から推測すると、昔、鑪(たたら)があったのではないかと思っている。たたらとは古くから伝わる製鉄法である。土製の炉で火をおこし、砂鉄と木炭を三、四日昼夜にわたって交互に入れ、最後に炉を壊して鉄の塊を取り出すというものである。それらしき証拠として、東安庭の試験場入口の真向かいに鉄砲場跡と言われた畑地があり、金くそ(ノロ、スラッグ)が出土し、畑の脇道に重ねられていたからである。

鉄の歴史は古い。日本列島の人々は、もともと鉄資源を求めて、半島南部と交流を持っていた。4世紀後半、大和朝廷は朝鮮に出兵、加羅(任那:みまな)に拠点を築いた。高句麗は南下政策をとるや百済、新羅とともに高句麗と戦って勝った。その結果、多くの鉄を手に入れ多数の技術者を連れて来た。5世紀以降、大陸や半島から技術を持った人々が列島に移り住み、渡来人は鍛冶や機織のほか色々な技術を伝え、主に近畿地方に住んだ。(新しい歴史教科書など)

この鍛冶の技術は、その後、伯耆の国など中国地方へと伝わったが、奥州へ伝わったのは東大寺大仏鋳造に際し陸奥守が砂金を献上した際、技術集団が移入したのではないかとされる。
殆ど知られていないが、一関と平泉の境に舞草神社という所がある。この地で日本刀のルーツともいわれるほどの鍛冶集団(舞草鍛冶)により刀が作られていたという。
坂上田村麻呂(758~811)が、達谷窟を本拠とした蝦夷の頭目、悪路王(アテルイとも)と戦ったとき所持していたと伝えられる刀が中尊寺に収蔵されている。
その後、舞草鍛冶は忽然と消す。舞草鍛冶は鎌倉幕府によって強制移住させられたのである。鋼(はがね)の技術を持つ伯耆鍛冶と舞草鍛冶の軟鉄をあわせ、鍛造することで日本刀は完成したと伝えられている。
舞草鍛冶は鎌倉の山の内郷(現横浜市栄区)に住まわされた。近年、鑪の跡が多数発見されている。(この項、横浜市栄区歴史教室講座参考)
金と鉄と馬は岩手のキーワード、平泉への道、工藤雅樹先生の話、聞きたかったなぁ。

追記:山の話としては無理がありましたね。「たわごと」の内容は出来るだけ、みなさんとどこかで共有できるネタを採り上げて来ましたが、ネタ切れの感もあり、次回から少し私の投稿のコンセプトを拡大します。自分だけの世界かもしれませんが、世の中色々、人生色々、たわごとですから。
(6・2 八柳)

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