e−たわごと No.266

投稿日 2006/06/22  サルバドール(救世主)
寄稿者 八柳修之

南米大陸の最東端はブラジルのレシフェであるが、少し手前のサルバドールまで行ったことがある。ブラジルに「北東部ブラジルへの旅は過去への旅」という諺がある。この諺の「過去」とはブラジル文化の原型となった古い奴隷時代の跡や文化、生活習慣が北東部に残っていることを示しているとともに、最も早く開発された所なのに、今なお貧困地域でブラジルのお荷物となっているという意味も込められている。ブラジルではバイアーナ(バイア州の女)と言えば、働き者で日本では死語となった女中さんの代名詞のように使われている。
ブラジル文化をつくったブラジル人気質は、白人とアフリカ人とインディオの三者が北東部地域で混血することで誕生し、醸成された。ブラジルの奴隷社会は土着のインディオとアフリカ人の奴隷に依拠し、そこから数多くの人種集団が生まれた。ポルトガル人は他のヨーロッパ人にもましてインディオやアフリカ人と混血する素地を持っていた。アングロサクソンからは道徳的観念が薄いと批判されたが、ポルトガルは古くからアフリカから奴隷を入れ、奴隷を自己の所有物と看做しどうしようと勝手であった。
混血には白人とインディオとの混血であるメスティーソ、白人とアフリカ人の混血ムラート、そしてアフリカ人とインディオの混血カフーゾがある。メスティーソは奥地で牛飼いとなり、ムラートは砂糖農園の働き手として下層階層を形成する。ムラートはアフリカ人と異なり奴隷の身分から解放され、白人よりも熱帯の生活環境に適応しのびのびと生活した。「ブラジルは黒人の地獄、白人の錬獄、ムラートの天国」という諺も生まれた。

さて、1549年、バイア州のサルバドールに最初のポルトガル植民地の総督府が設立されて以来、アフリカ、とくにアンゴラから持ち込まれた衣食住などの生活習慣、音楽、芸術、食べ物などはこの地に深く根を下し、今ではアフロ・ブラジル文化と呼ばれている。
町の中心部ベロリーニョ地区は16~18世紀にかけて造られた古い建物が残り、ユネスコの文化遺産にも登録されている。だが、この町はブラジルでも1、2を争うほど治安が悪い。細心の注意が必要と聞いて、現地の人と一緒におかなびっくり歩いた。黒い何もすることがない人が寄って来るから、写真も撮るなと言われた。この写真はVARIG航空のPR写真からとったものだ。「ここは何か見る所ではなく、何かを感ずる所だ」という言葉を、今でも覚えている。

ブラジル人の大好きな豆料理フェジョアーダは奴隷の食べ物に過ぎなかった。新鮮な魚介類をヤシ油で煮込んだムケッカは、バイア州の名物料理であると聞いて食べた。「サブローソ(麻雀の手ではない。美味しいという意味の最高級)」と言ったら、「お前はまたバイアに来るよ」と言われた。以下、受け売り。

足技の格闘技なのか踊りなのか空手のようなカポエイラ、アニミズムのカンドンブレ、いずれもアンゴラをルーツとする。過酷な奴隷制度の下で、彼等の唯一つの楽しみはアフリカ回帰の願いを歌や踊りに託することであった。
踊りでカムフラージュしながら奴隷達が継承してきた宗教、カンドンブレは歌や踊りによって陶酔した精霊を地上に呼び戻し祝福を受けるというものである。サルバドールで行われる海神イエマンジャーのお祭は有名なそうである。
白い木綿のロングドレスに身を包んだ女達が頭の上花かごを載せ、供え物を支えながら、海に身を浸し精霊降ろしの儀式をする。

サルバドールの海岸はバイア・ドス・サントス(諸聖人達の湾)と呼ばれ、人々にとっては信仰の場である。「いつか、海の彼方から自分達を救いにやって来る」と信じられているイエマンジャーの神、人々は口々に「イエマンジャー!」と叫ぶという。

果たしてサルバドール(救世主)はやって来たのであろうか。そしてその叫びは、遙かなる故郷アンゴラへのサウダージ(思慕、やるせない思い、郷愁)なのであろうか。
それから、12年後、私はなんの縁なのか、西アフリカのアンゴラ、ガボンのオフショアで石油開発をする会社に入り、アンゴラの歴史に興味を持つようになっていた。(99年3月、石油開発情報センター誌、コーヒーブレイクに掲載したものを一部加筆修正したものです。最南端、最東端の話しはこれまでに。次回からはアルゼンチン体験談、ますます自分の世界、個人のブログ向きのネタかもしれませんが・・・)

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