e-たわごと No.279

投稿日 2006/07/09   チベット(1/2)
寄稿者 斎藤 毅

 「日本のチベット・岩手」と言われることがある。
 チベットは、昔から独自に高度の精神文化や華麗な芸術を育んできた所だから、其処になぞらえることは、本来決してマイナスイメージではない筈である。然し、之を他府県の人が言うのは、ド田舎だろうと揶揄するようなときであり、又、本県人はやや自嘲気味に同じ表現をしているようである。
 そのようなとき、私は「話し手自身がチベットのことを知っているのか?」と言いたくなったものだ。そこで「それなら自分で現地で実際のところを確認しておかなくては」と思ったのだが、仲々実現出来ずにいた。それがヤット可能になって出掛けたのは、ニューファンドランドに行く一ヶ月前のことだった。

 日本人で初めてチベットに入ったのは、明治時代の河口慧海、続いて大正時代の多田等閑であり、戦前は数えるほどしか居ない。
 河口慧海は黄檗宗の僧侶であるが、漢訳仏典に疑問を感じ、印度仏典の原初形態を最もよく留めているというチベット語訳の大蔵経を求めて出掛けた。先ず英語を勉強した上で、伝手を求めてインドに渡り、ダージリンでチベット語を学び、ネパール側から単独でヒマラヤを越え、鎖国していたチベットのラサに、国籍を秘して入った。神戸を出てから3年掛かったそうだ。明治37年に「西蔵旅行記」を著わしている。
 次いで、多田等閑は大正2年にブータン経由入蔵。ダライラマ13世に師事し、10年に亘って修行した。

 先人の苦労とは全く異なり、私は1998年5月18日成田発、北京、成都を経て5/21ラサ空港到着。いきなり標高3650mだから高山病要注意であり、この日はホテルの付近を散策するに留めた。ラサは「太陽の都」と言われるように紫外線の都であり、その上地元の人には洗顔・入浴の習慣がないから、皆、色黒である。
 チベットは、清時代はその宗主下にあったが、第2次大戦中は中立を守り、インドから中国への軍需物資輸送を英・中が求めたときも断っている。然し、新中国が生まれると中国は領有権を主張し、1950年中国軍がラサ進撃。59年には反中暴動が起き、このときダライラマ14世はインドに亡命した。 中国による解放?侵略?により、様々な変革がなされたが、更に文化大革命では文化遺産の破壊という大きな傷跡を残した。
(活字を読むのが面倒な方は、ジャン・ジャック・アノー監督の映画「セブンイヤーズ・イン・チベット」をご覧下さい。)

 5/21 先ず、ポタラ宮へ。13階建ての美しい建物。白宮(ダライラマが世俗王としての権力を行使する場)と紅宮(祭祀主たる歴代ダライラマの廟を中心とする宗教儀式のセンター)がある。荘厳な宝座の間・霊塔・宇宙の縮図といわれる曼荼羅等圧巻。
 午後は、セラ寺(慧海や等閑が修行した寺)へ。修行僧達が勉学中。身振り手振りを交え、掛け声を伴うデイベート訓練中。真言を唱え、禅問答のようなことをしているのだろうか。
続いて、ラサ最大の寺・大昭寺へ。本尊は唐から嫁いできた文成公王が齎したという釈迦像。唐と吐番(チベット)の和平条約の記念石碑もある。

 5/22 午前中にゲルク派最大の寺院たるデプン寺へ。ダライラマ3世、4世の霊塔がある。
午後は、ダライラマの夏の離宮ノルブリンカへ。現在は公園になっている。(翌日は西方へ)
 
 

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