e−たわごと No.292

投稿日 2006/07/22  小笠原さんの死を悼んで
寄稿者 吉田一彦

 『霞ヶ関』シリーズが終わって、次のシリーズに移るには、是非このことを書かなくては、前に進めないと私は思った。
 『このこと』とは、突然の小笠原靖幸さんの訃報のことである。

 その日東京は、朝からやや強い雨が降っていた。
 幹事の小笠原ご夫妻からいただいたご案内、7月21日の在京の附中会納涼会の開かれる日のことである。
 私は、早めに自宅を出ると会場の『笹乃雪』のある山手線の鶯谷駅に思ったよりも早く着いた。
 会場に向かうには少し早すぎたので、私は、驛のホームのベンチに座って、夏の冷たい雨に濡れた紫陽花の咲いた線路脇の小高い土手を眺めていた。
 ちょっと疲れた私の目には、そんな雨の滴り落ちる殺風景な土手であっても何か新鮮で、久しぶりに見るようなちょっと素敵な風景に写った。
 土手のはるか上のほうには、よく見えないが、古い墓石や塔婆のようなものが覗いていた。
 私は、この界隈にはあまり来ることもなく、地理にも不案内だが、一瞬もしかしたらこの辺りは谷中の墓地かなと思った。
 会の始まる15分前に私は、驛のベンチを立って改札をくぐり、街の雨の中に出た。
 50年近く前に、私は、一度今日行くお店に行ったことはあるが、そのときの記憶と今日の街のイメージとが全然合わない。
 仕方なく客待ちをしているタクシーの運転手さんにお店への行き方を聞いた。
「二つ目の信号の角ですよ―――」
 私は、その方向に進むと、途中、菊池貞武さんに会った。
 二人になるとお店の位置に確信がなくてもなんとなく心強い。
 まもなくお店の看板が私の目に入った。
 この店は、建っているところが昔の場所とは違うのか、私は、一瞬思った(後でお店の人に聞くとそうじゃなくて、道路が整備されただけとのこと)。
 お店に入ると、部屋に案内された。高橋さん、大野さん達3〜4人が既に来ていた。私も席に着く。
 予定の時間になっても幹事の小笠原さん夫妻はまだ現れない。
 高橋さんがCDのプレイヤーみたいなものを黙々といじっている。
「今日は珍しくカラオケでもやるつもりなのかな?」
 私は、順番がきたときに歌う歌を一瞬心の中であれこれ詮索した。
 幹事の姿はまだない。席が二つ空いている。どうしたのかな?私は不思議に思った。
 高橋さんがおもむろに立った。
「実は・・・20日に小笠原さんが・・・・」
と説明する。皆一瞬驚いて声もない。静謐な悲しみが部屋一杯に広がった。
 お店の人がワイングラスに入った梅酒(?)を配る。私は呆然としていたので、あるいは白ワインだったかもしれない。
「小笠原さんのご冥福を祈って献杯しましょう・・・・」
高橋さんの声もむなしく響く・・・・
「献杯」
こんなことってあるの!
 高橋さんがCDの音楽に合わせ追悼の詩吟を美声で唸る。
 皆が目を瞑り、じっと耳を傾ける。頭には何を描いているのか!


「次は、てっきり吉田君だと思ったけど、小笠原君とはなあ・・・・・」
 少し心にゆとりが出来て、2,3人の人から異口同音にそんな声があがる。
 私は、
IWAYAMAに自ら「74歳の死」を予告したのだからそういわれても仕方ない。
 だけど、一番元気そうに見えた小笠原さんだったとは―――
 悲しみを紛らわそうと思って飲んだ麦焼酎のロックが私のはらわたにしみる。

 少し昔のこと、この附中会で、本当に久しぶりに小笠原さんを目にしたときに、彼は、超一流企業の重役然として、ふてぶてしい風貌と貫禄を見せていた。
 私は、役所では、いつも民間の偉い人たちを相手に仕事をしているので、彼もそんな部類の人達だと思っていた。
 そうした彼と附中会で会うたびに彼が段々身体も丸くなって、好々爺のお人に変わっていくのが私は不思議であった。

 今年のあの雪の日の横浜の中華街の新年会の二次会で私達はセルフのコーヒー店に入った。
 私は、面倒くさく、普段コーヒーをあまり飲まないので、スタンドまでコーヒーを買いに行かなかった。小笠原さんはそれを見て、カウンターにわざわざ足を運び、コーヒーを買ってきて私にくれた。私は嬉しかった。隣にいた大野さんがそれを見て、
「小笠原さんってそんな人だったの・・・・」
 と例の早口で言った(彼女は、お顔に似合わず、時々強烈なことをおっしゃって思わずドキッとすることがある)
 私は、彼女が何を言わんとしているのか、意味が分からなかったが、その場の雰囲気からネガテブな部類の発言だと受け取った。


 このときの話を『笹乃雪』の席で向かいに座っていた大野さんにした。
「私は、横浜で小笠原さんからコーヒーをご馳走になったでしょう。あの時は嬉しかったなあ!!!」
 これを聞いた大野さんがおっしゃった。
「ご馳走してもらうと嬉しいでしょう。初めてその気持分かったでしょう!」
「私は貴女にご馳走したことは一度もないからね・・・・・」
 彼女との会話は、これで途切れたが、この話の続き、深層心理に触れる部分は、私が何かの文学賞をいただいて、本物の作家になったときに必ず書きます。
(昨今、文学賞の新人賞は、出版社の商業政策と年齢差別によって、受賞者は年々低年化している。私のような老人は、新人賞をとるのはとても無理だろうからこの話が実現することは未来永劫ないだろうが―――)

 それにしても私は、小笠原さんの死は、とても残念だと思っている。
 これまで彼とあまり話しをしたことはなかったが、横浜の出来事を契機に、これからは私の知らない世界の話を沢山彼から聞くことが出来るだろうと喜んでいたのだから・・・・・・
(私は、単身赴任で高松に住んでいた頃、岡山で新幹線を乗り換え、宇高連絡船に乗るとき、岡山には知人が一人もいないが、小笠原さんがかって岡山の名門校の朝日高校に入っていたことをいつも思い出していた―――)
 それと・・・・・この
IWAYAMAに、私のように2,3日しか滞在しない旅人が知ったかぶりをしてニーヨークやサンフランシスコを書くのもご愛嬌だが、それよりも小笠原さんのようにその地で実際に何年も生き抜いてきた人達は、観光のパンフレットにないような街の様子や私達の知らない生活模様を書いて私たちを楽しませて欲しいなあ・・・・
 私がもうすぐ種切れで、
IWAYAMAから筆を折るとき、次はいよいよ真打の小笠原さんの登場だと私は密かに楽しみにしてました。―――残念です。


 思いもよらなかった親切溢れる一面を見せて、人の面倒見の良い君は、いつか私が天国にいったら私のことを群集の中から見つけ出してお世話して下さいね・・・・
                   ―――さようなら

 私の書いた小説(あっ!誰もまだ読んだ人はいなかったのだ!)には『死』のことについて書いたものが多い。
 私は、「死について書くのは、強い『生』を求めているからだ」と心の中で思い続けている。
 今回の附中会で、確かかって中学生のころ文学少女だった鈴木万里子さんに
「貴方の書いたものを時々IWAYAMAで見るけど、意味が分からないところがあって・・・・」
 といわれたが、彼女は、私のこの『死』と『生』のことをわかってくれるでしょうかねえ―――


 さて、捨石になっるつもりで、生きている限り書き続けるY氏の次のシリーズだが、今度は友人の隆宮 暁氏にバトンタッチして、題名を「
Tokyo Station 丸の内北口の攻防 −私の地獄絵図―」にしたいと管理人の絢子さんにお話した。
 「題名が何とかならないかしら? 『地獄絵図』では最初からどろどろして、いやよ! でも気になさらないでね・・・」
 彼女からやさしいお言葉が返ってきたが、私は正直なところ気になった。
 小笠原さんが亡くなられる一週間も前の話しである。
 小笠原さんは、私と違って、地獄に落ちる心配は微塵もないが、私も恐ろしくなって考え直しました。
 
 絢子さんの所望するような心どきどきするサスペンスは、まだ未熟で私は書けないけど、
Tokyo Station 丸の内北口の攻防―最後の賭けー」では如何かしら・・・・・

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