e−たわごと No.295

投稿日 2006/07/14  竹生さんに会いました
寄稿者 八柳修之
日銀は14日の金融政策委員会で、01年から続けているゼロ金利政策の解除(利上げ)を決定したが、9人の委員の中に春 英彦さんがいた。同氏は利上げに慎重な少数意見であったが、多数決での決定である。
12日の朝日の記事を見た竹生さんから、「春さんの知事公舎に遊びに行ったことがありますね」というメールを貰った。
写真が掲載されていたので、小さいが転載します。目のあたり、面影が残っているような気がします 
             
春さんのお父上は、官選最後の知事であった。小学3年の頃であったと思うが、村井(旧姓田口、高橋明さんの姉上)先生のクラスで一緒だった。
当時、知事公舎は与の字橋の袂、現在の県民会館の場所にあった。黒い板塀が張り巡らされ一般の人には知事公舎の中をうかがい知ることはできなかった。守衛が立っていたが、同級生だというと入れてもらえたので、クラスの殆どの男子生徒は、物珍しさもあって遊びに行ったものであった。記憶にあるのは大きな庭木のあるお庭と全巻揃った赤い背表紙の少年少女世界名作全集であった。

春さんの思い出といえば、ひとつだけ忘れないことがある。当時は終戦直後、食糧事情が悪く、比較的裕福な附属の生徒でも、満足な弁当を持って来られる者は少なかった。弁当箱の中身がカボチャだけだったり、弁当代わりに新聞紙にサツマイモを包んで持って来る生徒もいた。
そんななか、春さんのお弁当は、お米が一粒もなく昆布を刻んだものだけだった。それは知事の子弟であるというのに、みんなの驚きでもあった。
知事という立場上、お米の弁当を持って来られなかったのか、それとも本当に何も手に入らなかったのか分からないが、いずれにせよ春知事の高潔な人柄が偲ばれる。

知事が民選となり、県北の篤農家の国分謙吉との選挙戦に敗れてしまった。
浪人となってから、しばらく大慈寺の前の川鉄という昔、料理屋だったという家の二階に移った。川鉄にはプールくらいの大きな生簀が2つあったが、鯉は飼育されてはいなかった。ここにも2〜3回、遊びに行ったことがある。
「のらくろ」「たこのはっちゃん」「日の丸旗の助」などの漫画を借りたことがあった。今、考えてみると、「のらくろ」も「たこのはっちゃん」も戦前の本である。春さんは長男、なぜ、春さんの家にあったかは分からない。川鉄に住んで居られたのはほんの2〜3か月であったと思う。盛岡にも1年住んだかどうかも分からない。

春知事はその後、東東京都知事の下で副知事までされた。昆布の弁当のことと当時の村井先生のことは、その後、岩手日報の対談で春副知事が語っている記事を読んだことがある。英彦さんは東大から東電に入り、もっぱら企画畑のエリートコースを歩き、副社長をされた後、現在、日銀政策委員をされている。

春さんは、我々のことは忘れても、昆布のお弁当のことは決して忘れていないと思う。私でさえ忘れないのだから。
  (7・14)

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