e−たわごと No.297

投稿日 2006/08/01  盆踊りのルーツ
寄稿者 八柳修之

長かった梅雨も明けました。夏は盆踊り。ご案内の盛岡さんさ踊り。岩手日報、観光協会のHPで見ました。さんさ踊りは、いつの間にか輪踊りから、行列型に変わってしまいましたね。観光化されて来たということでしょうか。

私の住む町、藤沢には時宗の総本山遊行寺がある。時宗は浄土宗の流れを汲むものであるが、開祖一遍上人が、念仏を唱えながら踊って布教したという「踊り念仏」が、盆踊りのルーツではないかということに着目して、7月23・24日に「遊行の盆」という新しいイベントが開催された。
全国の著名な盆踊りを招き、また「踊り念仏」をモチーフにして新しい藤沢の踊りを創作し、藤沢の町の活性化を図ろうというものである。今回は富山越中おわら風の盆、秋田の西馬音内の盆踊りを招聘するというので、境内の特設座席は2,200人(主催者側発表)で賑わった。

永六輔の話やシンポジウム、解説から、盆踊りのルーツを紹介したい。
一遍上人は、南は鹿児島から北は岩手まで、その半生を念仏、「南無阿弥陀仏」を説いて歩いた。永によれば「ナム」とはサンクリット語で「あなたを信じます」「あなたが好きです」「あなたについて行きます」という意味、「アミダブツ」は「仏」である。
難解なお経を唱えても意味が分からない民衆にとっては単純明解であったに違いない。

踊り念仏の起源はいつごろであったか? 弘安2年(1279)、一遍上人が京都から信州佐久にやって来た。そこで多くの信者と念仏を唱えているうちに、突然、一遍が手を振り、足を跳ね上げて踊り出し、信者がこれに従ったのが始りとされている。その様子は「一遍上人聖絵」にも描かれているという。
「踊り念仏」は、集団でとんだり跳ねたりするという特徴があり、参加者に恍惚感と自己開放をもたらす。このような「踊り」と「念仏」を合一化し、心身の飛躍を通じて法悦を得るというのが、一遍の踊り念仏の考え方であるという。

聖絵には、その後ぱったりと踊り念仏が描かれていない。再び登場するのは3年後、片瀬の地蔵堂である。ここでの念仏踊りは以前とは全く様子が違っていた。高床に屋根付きの舞台が組まれ、踊っているのは僧尼たちだけで、民衆は見ているだけである。
この絵の変化について、東大の松岡教授は次のように述べている。「踊り念仏は『踊り念仏興行』に転化した。それは教団が解散の危機に晒されていたからだった。この危機を乗り越えるため、一遍は起死回生の二つのパフォーマンスをした。
一つは時の権力との対決。鎌倉以外なら布教は構わぬといわれて、片瀬の地蔵堂に移る。『北条時宗と喧嘩する凄い坊さんがいる』ということで一躍有名になる。

二つめは踊り念仏を「興行」とし、大当たりしたことだった。この踊りで重要な役割を担ったのが尼さんたちであった。踊るうちに恍惚の世界に入り込み、その表情に人々は、あそこに極楽浄土があると思った。舞台の上で裾を跳ね上げて踊る尼さん、ハードロックの乗りだったに違いない。

世は南北朝前夜、蒙古襲来の不安、既存の仏教は権力者のために異国降伏祈祷を繰り返すだけだった。民衆の怒りと不安は高まるばかり、そこに現れたのが、一遍の踊り念仏、エクスタシーを伴う踊りは、行き場のない人々の怒りと不安を解消するのに充分だった」(絵画日本史「一遍聖絵」03・11・9付朝日要約)

ところで、ルーツの遊行寺の念仏踊りは関東大震災まで続けられたが、その後、途絶えてしまった。昭和50年、信州跡部(あとべ)に伝えられる念仏踊りが、遊行寺の念仏踊りと同じものであったことが確認され、遊行寺念仏踊り保存会の人たちによって継承されている。その念仏踊りを見たが、殆ど動きがないもので、飛んだり跳ねたりするものではなかった。
今後、この念仏踊りをベースとした新しい藤沢の盆踊りが全国的に有名な踊りとして発展していくか感心のあるところであり、そのうち、さんさ踊りも観られることであろう。

(8・1 八柳)

聖絵に描かれている片瀬浜の様子


遊行寺踊り念仏 遠くてよく見えない

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