e−たわごと No.313

投稿日 2006/09/18  卆寿を過ぎた同級生
寄稿者 八柳修之

70歳、古希、古来稀のことであったが、今では普通のこととなった。そして、まだ親が健在な人もいるという時代でもある。私の母、ハナは大正4年生、まもなく91歳を迎えるが、介護度5で鎌倉のある施設に入院している。
以前にも述べたが、母は佐々木義弘さんの母上ミキさん(以下、ミキさん)と秋田の附属幼稚園から、小学校、秋田高等女学校を卒業まで一緒で親友である。ミキさんは、現在、長男の恵彦氏(附中3回生、現日大生物資源科学部長)宅に同居され、すこぶるお元気なご様子である。
一方、私の母は、名前を聞かれても旧姓で答え、私を父と混同するほどボケてしまっている。しかし、ミキさんの事はよく覚えており、体調のよいときは、ミキさんと携帯で会話させている。

そのミキさんから、便箋3枚に亘るお手紙があった。昨年8月、転んで手首を骨折したというものの、しっかりとした字で漢字も忘れることもなく、しかも内容は理路整然とし心身ともにご健在ぶりを示すものであった。手紙の内容を母が理解出来たかは疑問であるが、頷いていたから良しとしよう。

手紙の内容は、ミキさんの了解を得ておらず私的な部分もあるので、詳らかにすることはできないのが残念であるが、大略、こういう内容である。
「9月8日(金)、ディホームに通っている先に、近くの桜ヶ丘小学校の4年生が訪問して来て、子供たちと二人一組となって手工をしました。その相手の子供の名を聞くと、八柳○という名前、聞くと父親が秋田の出身であるという。八柳さんの親戚縁者に世田谷桜ヶ丘に住む人はおりませんか」とのお訊ねである。(残念ながら親戚縁者には居ない)

さらに、話は二人が再会したキッカケに及ぶ。二人が女学校を卒業したのは、17才、昭和8年のことであった。ミキさんは卒業と同時に結婚され、秋田を離れ、その後、音信不通となっていた。
再び会うことができたのは、昭和25年3月、「私たちは附属小学校の卒業式で突然お会いしました。私どもは新庄田中という所に居りました。お母様は一番下の坊やを乳母車に乗せて、よく遊びにいらっしゃいました。お宅は小麦試験場でしたね」「八柳様には本当にご縁がありますね。金曜日にお会いした坊やも八柳さんでしたし。・・・私たちはもう91になりましたね」

父が退官し、昭和42年から鎌倉に住むようになってから、年1回、東京で開催される同級会には必ず出席していた母であったが、10年前、大たい骨を骨折して歩けぬようになってから、出席していない。ミキさんのお話では、一人欠け、二人欠けし、消滅してしまったという。

20年後、卒寿まで生きた同級生は、どんな話しをしているんでしょうかね。
古希の会を迎えるにあたって、田口、山中両幹事をはじめ同級生各位のご健康をお祈りするものであります。
(9・18敬老の日)

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