e−たわごと No.333

投稿日 2006/12/01  「盛岡ノスタルジー2」 浜藤(はまとう) 岩手川
寄稿者 八柳修之
 
浜藤酒造店 齊坂製作所(昔は鍛冶屋だった)
 
私が子供の頃、盛岡の三大銘酒といえば、岩手川、あさ開き、菊の司であった。
岩手川は第一工場が仙北町に、第二工場が鉈屋町にあった。第二工場の浜藤は、写真のとおり、建物は当時と寸分も変わっていない。昭和52年に市指定の保存建築物となっているからである。
鉈屋町の浜藤(関口さん)は、学校からの帰り道、あさ開きのある下町の緩やかな坂道を下り、その突き当たりにあった。時折、酒造に使った水が鉄パイプから側溝に排出されていた。小さなアルミのコップが吊るしてあって、ちょっとお酒の味がするお水を一杯飲んで、鉈屋町、神子田の街を通り帰宅したものである。その銘酒の一つ「岩手川」が今年2月に破産したという。
当時、鉈屋町の関口さんのご長男は父の勤める試験場に勤めておられ、また国体に何度か出場されるほどのバスケットボールの選手、監督であった。そんな関係もあって、父と工場を見せてもらったこともあった。

ここで、岩手川(浜藤)について下手な説明をするより、街の古老Mさんからいただいたメールを一部引用させていただくことにする。
『天明年間(1781〜87)に仙北町の米屋からスタートした「浜田屋藤右衛門」通称「浜藤」(はまとう)は、米の仲買や金融を扱い一代でその基盤を確立、二代目籐右衛門も事業を拡大して三代目に繋いだのですが、時あたかも明治維新による廃藩騒ぎ。貸していたお金が貸し倒れとなって苦境に陥ってしまった三代目が一大決心をして始めたのが酒造業だったのです。
鉈屋町の酒蔵はもともとは幕末から明治にかけて盛業した「近江屋藤兵衛」通称「近藤」(きんとう)の蔵でした。当代随一の石高を誇っていたこの蔵を、酒造業が順調に拡大し財産を築いた「浜藤」が明治29年に買い取ったのでした。
後に社名を酒の銘柄でもある「岩手川」に変え、岩手を代表する銘酒として一世を風靡しました。
明治の町家と大正時代に立てられた文庫蔵が鉈屋町の通りにその存在感を示しています。裏の市立病院跡地側から見ると、明治、大正、昭和、各時代の酒蔵が並び、盛岡の酒造りの伝統を重厚な形で確かめることができます。まさにここにはそれぞれの時代の物語が埋もれているのです。

 ご承知のように先般の(株)岩手川破産により、この建物群の運命がいま風前の灯となっています。盛岡市と民間が協同で保存活用の道を模索しているところですが、予断を許さない状況です。なんとかここを守り抜けば、100年前のご先祖さまや100年後の子孫から「大切なものをよくぞ残してくれた」と感謝されるに違いない、と思うのは私だけではないはずです』

一方、昔は遅れをとっていた「あさ開き」、工場は建て替えられ、工場見学バスの誘致、物産館、レストランなどの多角経営によって繁盛しているように見受けられた。
(12・1)

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