e−たわごと No.334

投稿日 2006/12/05  「盛岡ノスタルジー3」 第二分団番屋
寄稿者 八柳修之
 
第2分団(め組)番屋
脇田健一氏撮影
 
紺屋町番屋と八幡町番屋には望楼があり、歴史的建造物として保存され観光スポットともなっている。鉈屋町に第二分団(め組)の番屋も写真のとおり、捨てたもんじゃない。鉈屋町から神子田町に変わる地点を、街も古老Mさんに聞きそびれてしまったが、第二分団の番屋は確実に鉈屋町に入るであろう。
鉈屋町の名前の由来については、末尾の街も古老Mさんのメールを参照されたい。別に鉈屋が住んでいた町ではない。

第二分団、正式名は盛岡市消防第二分団であるが、以前は「め組」、戦時中は警防団と呼んでいた。町の古老Mさんによれば建物は大正時代のものであるという。私の記憶では、消防署員が常駐しておらず、いったん火事があるとこの辺りの男衆が番屋に駆けつけ、消防車の出動と相成った。東豆腐店のトンちゃんのオヤジさんも消防団員で、いつでも飛び出せるようにお店には半纏が吊るしてあった。当時は今と違って、火事の出火元からは消火のお礼のふる舞い酒があったから、呑み助には楽しみでもあったかもしれない。また番屋はこの地区の集会所でもあり、夏ならば縁台を持ち出し歓談していたし、秋になれば八幡様の祭礼に向けて山車の製作に励んでいた。

番屋の隣にはまだ「藤原毛皮店」の建物があった。ここの娘は、盛岡が生んだ大女優、宮城千賀子以来の女優といわれた三原葉子の実家である。三原葉子と聞いて、その名を知っている人は、三原葉子の映画を観たことがある人?
三原葉子は新東宝の看板、肉体女優と呼ばれた。今の露出度からすれば大したことではなかったが、当時としては世間を騒がすほどであった。
藤原毛皮店のはす向かいには、蹄鉄屋があったが、もとより今はある筈はない。馬の蹄に焼きごてを当てるから、ここの前を通ると臭かった。
浜藤の隣の齊坂鍛冶屋は、名前を齊坂製作所と替えたが、いまでも鍬などの農具を製造していた。
最後にこの鉈屋町の由来についての街の古老さんからのメールを紹介し、終りとしよう。

『町内に設置されている「城下盛岡町名由来」によれば、「むかし京都から豪商鉈屋長清が盛岡にやってきて、釶屋山菩提院(やおくさんぼだいいん)という寺を建てたのが町名の起こりである」ということで、藩政時代には「釶屋町」と書いて「なたやちょう」と読まれていたそうです。別に鉈屋さんが軒を連ねていたというわけではなかったようです。
 鉈屋町はご城下最初の町割りである23町時代には旧川原町支配に入っていましたが、宮古街道、それに遠野や釜石方面と通じる大迫街道が合流する道は当然のことながら人馬の往来が多く、酒屋、米屋、農具、小間物屋、荒物屋、鍛冶屋などあらゆる業種の店が並び、次第に町家が増え川原町よりもむしろ小間数も人口も多くなってきました。このため文化9年(1812年)、加増に伴い28丁体制に町割りが再編された時、青物丁や生姜丁などとともに「御町並」となり「鉈屋丁」として独立したのです。
(12・5)

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