e−たわごと No.340

投稿日 2006/12/15  「盛岡ノスタルジー6」 三田横町
寄稿者 八柳修之
 
三田家旧本宅 土蔵(三田商店の裏)
 
この横町、正式な町名であったか、通称だったのかは分からない。内丸の県庁通り、三田商店の脇から大通りに下る路地である。附中卒業50年記念のとき、記念品としてもらった「城下盛岡旧町名探求地図」(文化地層研究会編)をよく見ると記載されています。
三田商店は小川(旧姓三田)智子さんのご本家(小川さんの曽祖父は三田商店創業者の実弟)である。
三田商店はいまでは、セメント、ガラスなどの建材の取扱い、不動産業、M石油の総代理店であり北日本有数の商社であるが、私には火薬、銃砲店であったという記憶が強い。

写真は三田横町、右側は三田商店の古い蔵、左側に古い家が三軒並ぶ。いずれも空家となっている。内丸の通りに近い大きな家は、かつて三田家の本宅であり、伯父に連れられて一度お邪魔したことがあった。伯父と当主の三田義一(?)氏とは鉄砲撃ち(ハンター)仲間であった。あと二軒のうちのいずれかが県庁公舎として借り上げられていたと思う。山口君(父親が商工経済部長?)という子がいて、一度、春さんか山中さんと遊びに行ったことがあった。
三田さんは各所に多く貸家を所有していた。文化小路のミルクプラントンの近くの佐藤信生さんの家も三田さんの貸家だった。そういえば、ノブオチャン今どうしているべかなぁ。
三田さんといえば、工藤 力さん家の角から岩山へ登る道があり、貯水池の手前左側が鉄条網で囲まれた三田さんの火薬庫があった。当時はもう火薬は貯蔵されてはいなかった。通称赤山を含む中学裏の一帯の山も三田さんの所有地であった。この山の斜面に防空壕があって避難訓練したことがあったし、堆肥にする落ち葉拾いのために入ったことがあった。勇敢な少年は赤山をスキーで滑り下りた。その赤山は削り取られてもうない。

以下、物知りのタクシー運転手から聞いた話。(話しの正確性については、確認していないので、もし話しに誤りがあればご指摘ください。こちらが、地元の人でないと見てか、よくしゃべる運転手であった)。
『三田家は明治の初期、火薬の製造販売、とりわけ日露戦争で財をなした。
明治時代に中津川の大洪水があり治水のため植林事業を行い、今では植林地2000町歩、自然林とあわせると山林は香川県の2倍にもなる。岩手中学の創設や岩手医専の設立を支援した。南部土地という会社を設立、土地造成し菜園の町を作った。開運橋から三田商店までは他人の土地を通らずに来られる。東北では仙台の亀井商店、盛岡の三田商店といわれ、テリトリーは岩手、秋田、青森、北海道に及ぶ。年商約350億、社員約150人、終身雇用』

清流が流れる中津川、湧水も多く、盛岡は水の街ともいわれるが、三田さんが植林した水源地が環境保全されているお陰かもしれませんね。
(12・15)

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