e−たわごと No.344

投稿日 2007/01/02  三田横町余話  火薬 その1
寄稿者 八柳修之

三田横町を横道に入ります。先にタクシーの運転手の裏もとらずに三田商店のことを書いてしまったことが気になっていました。でもネットとは便利な用具ですね。
グーグルで検索をかけたら三田商店にはホームページがあり、運転手の話はほとんど正しことが分かりました。
だが、なぜ三田家が火薬商に手を染めたのか。そして、運転手が言ったようになぜ日露戦争で財をなすようになったのか関心があった。三田商店のホームページは私の関心に充分に応えてくれるものであった。以下、ホームページを部分的に引用して紹介することにしよう。『  』内はホームページ。
 
創業者 三田義正 妻サメ 昭和9年 三田商店HPより
 
『三田家の当主は代々南部藩士であった。藩士 三田義魏(よしたか)の長男義正は、明治20年(1887)に県会議員、市会議員に当選するなど県政、市政のため尽力してきたところであったが、議員在任中の明治27年(1894)、盛岡市積(カワラ)町での火薬商営業権を屋敷ごと譲渡したいという話を聞くに及び、将来に向かっての選択を迫られるところとなった。政策論争に明け暮れる生活より、地に足の着いた実業家に進むことを強く望む母親 キヨの熱意もあって決断、火薬販売の官許を取得して商業の道を選んだのが明治27年11月、義正34歳の時であった。
譲り受けた火薬営業権と屋敷は、盛岡市加賀野春木場字六一番地、火薬営業人 新田目恒治からであった。磧町(当時、加賀野春木場の辺りを通称カワラ町と呼んでいた)家屋敷を一部改造して、「三田火薬販売所」火薬の販売を開始した』

初代、三田義正が最初から火薬商を営んだわけではなく、新田目なる者から営業権を買取ったのであった。春木場といえば、荒川さんや佐々木冴子さん、松井さんのお家があった所である。六一番地に何があったか、おべているべかなぁ?
「城下盛岡旧町名べんじぇもの探求地図」を見ると、「積(カワラ)」は川留稲荷の辺りであり、三田商店のHPによると三田家はこの川留稲荷の再建にも深く関わっていたのであった。また「御持筒町」という鉄砲組が住んでいたと思われる町もあったので、この地域の山には鉄砲の訓練場所があったと思われる。
以前にちょっと書いたが、東安庭の農事試験場入口の真向かい辺りに南部藩が幕末のころまで、鉄砲を鋳造していたといわれる鉄砲場の跡があった。
では火薬はどこから入手したのであろうか、という疑問にぶちあたる。

ところで火薬は中国の三大発明とされ古くからあったが、1543年、ポルトガル人が種子島に漂着し鉄砲を伝え、その後、戦国大名が鉄砲を積極的に採りいれ、それまでの戦闘の方法を大きく変えたときから、火薬の需要は増大した。
信長は、武田の騎馬団を3,000丁もの鉄砲で壊滅させた。(長篠合戦1575)
当時、日本は世界有数の銀の産出国で、南蛮人たちは日本に火薬、時計、ガラス製品をもたらす代わりに銀を手に入れた。火薬の原料は、硫黄、木炭、そして硝石であるが、硝石は国内では天然のままでは産出しない貴重品であった。

では、輸入によらず、硝石を得る方法があったのだろうか・・・それがあったのである。硝石は焔硝ともいわれ、カリウムの硝酸塩鉱物、成因は土壌中のアンモニアが酸化してできたものである。(このあたりは薬学も修めた小川さんが詳しいが・・)
アンモニア・・を酸化させれば、人工的に硝石を作ることができるのである。
アンモニアと聞いて思い当たるもの・・・そうです御叱呼です。
人間や家畜小屋の浸透した排出物が浸透した土を煮詰めて精製する方法が古くから知られていたのだった。そして、意外なことに南部が第一の生産地であったのであった。
(以下、その2につづく)

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