e−たわごと No.345

投稿日 2007/01/02  三田横町余話  火薬 その2
寄稿者 八柳修之

南部藩が硝石の第一の産地・・・このことを知ったのは、「たわご」296で附六会の高野善夫さんの「港区に残る南部藩」を見て、港区の観光案内のHPを検索すると、有栖川宮記念公園(元南部藩の下屋敷跡)の案内があった。広尾宮唯一という人、おそらくハンドルネームであろうが、極めて興味深い投稿がなされていた。
孫引きになるが一部(『 』内)、をかい摘まんで紹介する。( )内は小生一部追加。
興味のある方は「港区観光内」で検索してみてください。

『「盛岡藩の硝石生産事情」と題する。工藤利悦氏の論説がある。(近世古文書館講座の会報「とわずかたり」第15号) (以下、カッコ内は小生一部追加)
南部利剛(としひさ、15代藩主)は幕府に硝石を献上、その他功績を以って嘉永五年(1852)に褒賞された事が、「徳川実紀」「慎徳院殿御実紀」巻十六の同月二十六日条に記載されています。

「造硝備考(安政四年著1858)によれば、「南部産硝石の販売量は、年々三万余斤(約7,500貫目、キロに換算すれば7,500×3.75kg=28,125kg=28t 昔の算数は換算がよくありましたね)、当今、南部を第一とし加州(加賀のこと)を第二とす。其余の硝石を産として世に販くもの、この二州に次ぐもの無し」と語らえるようになり、世の注目する処であったと勘考されます。

盛岡藩が硝石生産に目を向けた要因は大きく二点。第一は海岸線が長い七浦の防衛と、蝦夷地警衛の為の軍事上、第二の理由こそ盛岡藩特有、且つ最大の理由ですが、藩財政建て直しの一貫とする側面を有していた事です。

「内史略」によれば、製造場は「東中野村の内、中野館の於て薬(即鉄砲薬也)を制す、同所焔硝蔵囲置、土蔵等建、又葛西橋向川端(梁川)にも薬を制する水車場并小屋建云々」と見えます。』

火薬の原料となる硝石の生産地はこれで明らかになった。鉄砲と硝石の生産地は極めて近い所にあったのである。いずれも当時は町外れであった。

明治28年(1895)、三田火薬販売所は磧町の中津川沿いに「三田導火線製造所」を設け、導火線の製造・販売を行なった。
猟用火薬の販売から始まったが、明治28年尾去沢鉱山にダイナマイト50箱を納めたのが爆薬販売の端緒であった。すでに年尾去沢鉱山は、鍵屋の村井茂平衛から南部藩の借金の型に鉱山は新政府に没収されたとであった。(蛇足だが言っておきたい)


明治33年(1900)、商号を「三田火薬銃砲店」に改め、現在地の盛岡市内丸三四番戸に店舗を移転する。同年、函館に支店を開設。北海道開拓を見越してのことであった。また34年には日本橋堀江町に支店を開設している。
 
本店店舗 昭和30年代後半撮影 三田商店HPより
 
この当時のダイナマイトはすべて輸入品で、ドイツや英国から輸入、英国ノーベル社の日本総代理店は横浜のモリソン商会であった。三田は英国ノーベル社製品を取り扱っていたことからモリソン商会と協議、函館に三田が協力して火薬庫7棟を建設、明治37年9月竣工、「英国ノーベル会社ダイナマイト三田火薬庫」の看板を掲げた。この建設管理が、北海道の需要を掌握する基地となり、地盤を固める大きな戦力となった。さらに、明治41年5月、5棟増築して、火薬庫12棟という大きな基地となった。写真に見られるとおり大規模なものであった。

大正元年(1912)には、英国のグラスゴーノーベル社と契約し、東日本地域のダイナマイト販売を一手に扱うことになった。
 
英国ノーベル会社ダイナマイト三田火薬庫 明治41年5月撮影、三田商店HPより
 
日露戦争で財を成したというのは、以上の記述から読み取られるが、ノーベル社と関係を持ったことが大きかったと思われる。勿論、三田商店の交渉力にあったことに想像は難くないが、背景には当時の日本と英国との関係もあったと思われる。
19世紀末から20世紀の初めにかけて、日本は単独で国を守ることはできなかった。
三国干渉のあと、日本は同盟をロシアと結ぶか英国と結ぶかの選択に迫られた。
アヘン戦争の時代を知る伊藤博文等元老は親露政策を、小村寿太郎、桂太郎首相は親英政策を主張、小村の利害得失を論じた意見書が明治34年(1901)に採択され、35年(1902)日英同盟が締結された。この同盟はのち20年間、日本の安全と繁栄、さらに三田商店の繁栄につながったと考えられる。以下、さらに関心のある方は三田商店のHPを開いて見てください。
(完 1・2)

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